なってぃなってぃ2018年09月08日 00:58(分割1/2) ちょいとメモ。 3/6の朝3時過ぎに揺れが始まって目を覚ます。当時はリビングで寝落ちしていた。起きた時、あたりは真っ暗、もちろん停電突入だから。スマホの懐中電灯機能を使って、母親の寝室まで行って安否確認OK。 そこから母親がトイレに立つ度、スマホのライト利用する。自分はもはや寝る気なし。当時、スマホ、タブレットはほぼフル充電状態、他にポータブルのバッテリーが2基、これもフル充電済み。 ラジオが手元になかったけど、スマホでradikoを聞きながら、情報収集。朝5時過ぎに空が白み始める。この時はまだネットに普通につながった。 停電で交通機関が麻痺、地下鉄も動かない。となると会社への移動手段がない。その時点で、新千歳は全便欠航、JRや地下鉄、市電も運行の目処立たず。 8時過ぎ、会社に休暇の連絡を入れてみたところ、この時は何故か電話が通じた。会社もロッカーが倒れて大変だけど、移動手段が無いのでと言うと、仕方ないな、との一言。 前後して、レフトフレンズの方から気遣いの連絡。建屋は無事だし、水もガスも出る。無いのは電気のみ。食料もインスタントものはそれなりにあって調理可能。無事と言えば無事だけど、影響は?と言われると、影響あり、超軽めの被災者かも。 その後、8時半過ぎてネットにつながり難くなる。radikoが聞けない。ただ、停電が続いていれば交通機関が動かないから、会社に行きようが無い。 お昼過ぎ、すぐそばの小学校が避難所になっているのに気付き、様子を伺いに行く。まだ人は集まっておらず。食料は簡単なご飯と飲み水のみ。トイレは和式で高齢の母親にはしんどそう。水も学校は貯水槽利用で、通電しないと各所から水が出て来ない。なので、手動で貯水槽の蛇口から水を汲み出し、バケツに貯める方式を採っているとのこと。どこまで行っても電気、電気。夜間の照明もランタン利用とか。寝る場所からトイレまでの距離、トイレの不自由さから、自宅にいた方が負担が少ないと判断。自宅が強固で崩れる心配がなかったのも心強い。 そうこうしているうちに、15時過ぎ、夕刊が届く。わずか1枚4頁、よく印刷できたもんだ。ここで初めて今回の北海道胆振東部地震の実態を知る。こんな…、そんな…、と。 夕方16時頃、少しでもお腹に入れないと、って、カップ麺にお湯を入れて母親と二人で食べる。 夕方17時頃、姉から母親に電話が入る。母親の電話は機能がベーシックで、停電時でも発信は不可でも着信は可能。知らない人がいるかもしれないが、NTTのメタル回線は電力線とは別に48V系の電源が重畳されている。自分の電話は光回線で、商用100Vが来ないと光ルーターが機能しない。姉と話をすると、同じ札幌市内でも姉のところは一足先に電源が復旧したとのこと。 夕方19時過ぎ、姉夫婦が夕食用に調理したものを持ってきてくれた。ありがたいことだ。こっちは食材があっても、停電の不安で台所に立つ気がほとんどなかったので。 日が暮れる前に、ロウソクに火を灯す。仏間には仏壇があって、ロウソク立てもあったけど、そこに使うようなロウソクばかりではなく、何故こんな、と思われるくらい長いロウソクがあった。結果的に、そのロウソクは1本で燃焼時間9時間以上。これをリビングと母親の寝室に1本ずつ。もちろん、そう簡単に倒れないように、ロウソク立てへの固定とロウソク立て自体の固定を施して。倒れて火事になったら話にならない。あとは、懐中電灯が一つ。簡単に点灯/消灯ができ、トイレに置いて用を足せる。 夜中もあまり落ち着いて寝られない。かと思えば、気がついたら2時間経っていたとか。やっぱりどこかで疲れているんだ。 日が変わる。9/7の5時過ぎ、空が白みかける。もうちょっと経てば、ロウソクの用は終わる。朝食は、昨夜、姉が持ってきたものの残りを食べる。が、あまり食が進まない。 朝刊を読む。震度6強から震度7に訂正されている。ここまで来ると、感覚も想像力も追い付かない。 8時過ぎて、会社に電話を入れようとしたが、この時は機器の電源が入っていないとかで連絡できず。行くとも休むとも伝えられず。この状態は夕方18時近くまで続く。 午前中にネットの状態がかなり復旧し、再びradikoを聞けることに。この時点で空の便は午後から、新幹線も午後から、地下鉄はお昼過ぎから再開予定との情報。昼からなら会社に行けるのか、と。 #北海道胆振東部地震