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ゆうこりん

ヒカルがYoutubeで美容整形外科で施術した後のダウンタイム中の自分の顔を晒している。“かなり”な状態。(長尺なので、全部見なくても、最初から出してるから潔い) 息子と同級生世代のヒカル君は、 (言いたいことの)声が大きくて ストレートに響くんだけど、 この美容部分の“耐久時間”を動画にするって、新しい。 “顔を治す”ことを恥じずに、公にして良いんだって風潮になれば良い。 あ、私は、資金不足でなければ、美容整形やってみたいけどやれなかった派のラストサムライ(笑)ですね。 顔で勝負出来る若いうちに、 出来るのならしたらいい。 と、それで自信が持てるのなら “自分に投資”でいーんじゃないかと考えています。 箕輪さんとか絡んで欲しいかな。。。 https://youtu.be/Tyzdt45g3Ow?si=pKbICi8stjRPrsk4

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ゆうこりんのトーク
トーク情報
  • ゆうこりん
    ゆうこりん
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    一村が奄美に移り住んでからは、一見ルソー寄りに見えるのですが、日本画で表しているのが素晴らしい。
    顔料を分厚く盛ったり、抜きの空間など、奄美以前から洋画風な表現が見られますが、
    奄美で創り上げた世界観は、勢いが増して、“のってる”感じです。心に訴えてくるようです。

    ただし奄美以前の、“繊細”と”大胆”を取り混ぜたような、精密で力のある作品も好きです。美しい!

  • ゆうこりん
    ゆうこりん
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    田中一村の「白い花」は、1947年(昭和22年)に第19回青龍展に初入選した作品です。田中一村記念美術館に所蔵されています。---AI先生---
    ↑は拾い画像ですが、昭和22年の段階では[個人蔵]となっていることに驚き。

    川端龍子が主催する【青龍展】で初入選。
    公募展で入選した唯一の作品である。
    とはいえ、この後、二作品を公募展に出して、一作品入選したのだが、もう一作が自信作だったためか(?)激怒して、入選を辞退したらしい(笑)

  • ゆうこりん
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    30歳のころには、母方の親戚を頼って千葉に移住。それから約20年間、農村の風景、自然景色、動植物の写生に没頭します。昭和22(1947)年に「白い花」で画壇デビューを果たすとともに、米邨から一村へと改名。その翌年に発表した「秋晴」は、南画で獲得した自由な筆さばきと、写生で培った自然観察をもとに描かれた大作です。---個人ブログ

    これが、入選しなくて激怒した[秋晴]。
    濃淡を活かした金箔を背景に、厚く盛った木の葉や大胆な構図が素敵です。
    千葉時代の[写生生活]があればこそ、50代で奄美に移住してからの作風に突入し、情熱が溢れていったのだろう。と思います。

  • ゆうこりん
    ゆうこりん
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    南画(なんが)とは、中国の南宗画に由来し、これを日本的に解釈した絵画であり、江戸時代中期以降に発展をみた絵画様式である。文人画(ぶんじんが)ともいう。絵画のみならず、漢詩や俳句といった詩(言語芸術)と、それを記した書である画賛(視覚芸術)を組み合わせた芸術であるが、絵のみで成立していることも多い。

    若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞もしくは文部大臣賞)。

    1926年 - 東京市港区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。

    ---Wikipediaより抜粋

    一村と[南画]の繋がり。