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城所

「全ての生きとし生ける者の絶望と歓喜」 ランボーが現代に甦ったかのような言葉だ。 シンプルに見城さんの御製を拝読したい、そう思った。 もちろんこの言葉に、まだ見ぬ作品に対して僕は期待を禁じ得ない。 下世話な話だが、これ以上にコマーシャルとして読者に期待をさせ、かつシンプルにスペクタルをメッセージ出来る方が今の日本にいるだろうか。 後世に残る批評家として見城氏こそが小林秀雄氏、吉本隆明氏等と同列以上の批評家であるとの功績を疑わずにはいられない。 その見城氏をして、「神がかっている」と言わしめてしまう横浜流星さんは相当な役者なのだろう。 そして極めつけは、最後の一文であろう。 中上氏の作品を拝読するたびに、個人的には自己嫌悪と自己肯定をひたすらに繰り返す。 どちらかに寄れたら楽なのだ。 ただ氏の作品はそれを許さない。 そして氏と濃く深い交友のあった氏に、「観てほしかった」と言わしめるこの作品は、極上なのだろう。 蛇足ではあるが、このような日本文学史上に残る批評家である見城さんから、拙文に対して一度ならずお言葉をいただけた事実に対して、感謝を申し上げたい。 本年も見城さんと、その大切な方達にとって実り多き年になることを祈ります。

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城所 大観
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  • 城所
    城所

    スタイルが良いなあ。

    白Tの丈が絶妙だ。

    また色合いの最高なデニムのシルエットは、摂生をしていない人間には30代くらいから履きこなせなくなるものだと感じる。

    いわんや見城氏の年齢においてをや。
    またアウターの切り替えしと、リシャールの文字盤、そしてスニーカーの柄が絶妙に美しい。

    極めつけはキャップで、これがなんとも言えないハズシとして効いている。

    勤務外のジェームズボンドに勝るとも劣らない。

  • 城所
    見城徹見城徹

    ↑ ボディメイキングのために徹底した食事管理をしてトレーニングをするとこうなる。圧倒的努力には敬意を表するが、大会に出るために一時的に極端に絞ったとは言え、この顔になるのは本人が覚悟の上だったのだろうか?余計なお世話か?

  • 城所
    見城徹見城徹

    人は一人だ。いや、僕は一人だ。全ての人に片想い。全てのことに片想い。片想いだけが人生だ。

  • 城所
    城所

    至言だ。

    事の運びが上手く行かないとき、その原因を他人のせいにしようとする自分がいる。

    それは大抵は、自分を変えられない甘えだと、近頃感じる。

    だから他者を変えようとすることは愚なのかも知れない。

    自らを変革する覚悟と実行だけが、他者との関係性を変えられる可能性があるのかも知れない。

    とは言え、それでも相手が変わらなければ理屈では分かっていても歯痒さを覚えざるを得ない。

    だから結局、人は一人だ。僕は一人だと感じてしまう。

    全てのことに片想いなんだ、と。

    死ぬまで片想いで終わるのかも知れない。

    氏の言葉は表面的にはいつも甘くない。

    ただ土壇場で生きる人間にとっては、福音の如く優しい。















  • 城所
    見城徹見城徹

    どんな人とLINEを交換するか解らない。
    LINEの名前を愛称や訳の判らない記号、アルファベットにしている人の気が知れません。
    交換した相手が検索する時にどれだけ困るかを考えていないんですね。第一、本名じゃないのは相手に失礼です。本名はリスクもありますが、僕は本名にしています。友だちとだけLINEをやっているなら、愛称や記号でもいいけどね。僕の言っていることは変かなあ?

  • 城所
    見城徹見城徹

    幻冬舎を創った時によく使った言葉。

    圧倒的努力は岩をも通す。

    顰蹙は金を出してでも買え。

    新しく出て行く者が無謀をやらないで、一体何が変わるだろうか?

    たった一人の熱狂。

    極端こそ我が命。

    スムーズに進んだ仕事は疑え。

    感想こそ人間関係の最初の一歩。

    [この世あらざるもの]を作れ。

    薄氷は自分で薄くして踏め。

    考えて考えて考え抜け。

    憂鬱でなければ、仕事じゃない。

    3
  • 城所
    城所

    どのお言葉も含蓄に溢れている。

    そしてどのお言葉が、自身に最も響くかは
    自分のステージにより変化するのだろうなと思料する。

    今の自分には『たった1人の熱狂』がそれだ。

    僕は絶体絶命、と言うシチュエーションが大好きだ。

    武道をやっていた頃から同じだった。
    言い換えれば、僕は絶体絶命ではないシチュエーションには熱狂できない。

    平均以下の力しか出せないし、出せる気もしない。

    練習で出来ない事は本番でも出来ない、と良く言われる。

    練習で熱狂出来る人間であればそうであろう。

    でなければ、それは嘘だ、と思う。

    熱狂、熱狂、熱狂の渦に己を置くことで、
    想定を遥かに超える力を出せる人間も存在する。

    ただそのシチュエーションを他者と共に迎える事は難しい。

    また、己の熱狂を他者に合わせてコントロールすることも、また難しい。

    よって僕は『たった1人の熱狂』にならざるを得ない。

    他者の熱狂を待つ時間など、僕にはない。

    願わくば、共に熱狂してくれる人間を得たいが、それは期待し過ぎと言うものだろう。

    『たった1人の熱狂』

    何と孤高で、覚悟に満ちたお言葉だろう。

    見城氏のように、己を定義する言葉を、いつか自分の言葉で獲得をしたい。

  • 城所
    見城徹見城徹

    ↑ せめてあの人には「理解」されたい。そうこちらが思っている分、その人の「誤解」(と勝手に思い込む)が自分を切なくさせる。実は「誤解」は「理解」の一部だ。「無理解=無関心」が一番痛い。

  • 城所
    城所

    『誤解は理解の一部だ』

    無関心は0(ゼロ)だ。

    0にどんな数字を掛けても0にしかならない。

    ただ誤解には関心と言う数字がある、と氏のお言葉で気づいた。

    マイナスの数字かも知れないが、掛ける数字次第でプラスにも転じさせる力がある。

    可能性のある『誤解』と言う数字を毛嫌いせず、受け止めていきたい。