かねこひろきのトーク
トーク情報- かねこひろき
かねこひろき 父が毎月少額小遣いをくれます。それが今年に入ってから、少なくなり苦しいです。
働ければいいのですが、体も心も復活して自力で生きて行けるようになりたいです。
人生の手綱を取られてるようで自分の人生を生きれてません。
このまま動けなくなるまで待ってられません。
一旦NPOで環境にリズムを作り、なんとか早朝のパートからスタートさせたいです。
入院も考えましたが、結局また超音波を感じたらその度に入院するのがバカバカしいので、なんとか自力突破したいです。
昼ごはんを抜いて胃腸を空にして休ませてます。
なるべく散歩して、よく眠り、どんなに苦しくても、昼夜逆転させないで、いつでもパートができるようにしてます。
このままでは悔しいし、人生がもったいないです。
パートナーだって欲しいし、贅沢が出来なくても、珈琲とタバコと読書のお金が欲しいです。
働ければ、毎日が楽しいし、仲間が増えます。
とにかく今でもできることをやってみます。
少し休んだら、コンビニまで散歩してみます。 - かねこひろき
かねこひろき たまたま16歳で働いた農園のスタッフが全員山男と山女だったので触発されて僕も山を登ることになりました。ヤマケイを買ってきて穴が開くほど読んで、そこから新田次郎の孤高の人と植村直己さんの青春を山に賭けてを読みました。
それと百名山。
韮崎市で南アルプスと八ヶ岳に秩父連山のアクセスが比較的あったので、そこをベースに登りまくりました。
最初の北岳は、社長と一橋学園の学生の三人で登りました。
アルプス林道を歩いて夕方に小屋に着き、テンカラでイワナを釣って山小屋のオバサンと酒盛りしました。
それから夢中になり、月に4日の休日を全て登山にさきました。
そしたら八ヶ岳の冬山に行くことになり、東京の配達のときに登山具屋さんを巡り、冬山の装備を買いました。
それから、腰のヘルニアの手術するまで、狂ったように登りまくりました。
壁は怖いので沢登が限界でした。 - かねこひろき
かねこひろき 少しだけ若い時に空手をかじりました。
僕は弱いからスパークリングだけでも怖かったです。
また初めてローキックを受けたときに痛さよりも苦しくて倒れ込みました。
何にしても武道や格闘技は、練習こそが、裏切りません。
ローキックで倒れてショックだったので、毎日それから、すねを鍛えました。一年が過ぎて、再度その先輩とスパークリングをしたときに、一本を取れそうになりました。
でも小心者の僕は反撃を恐れて、動きを止めました。それからもう一年が過ぎて、空手を辞めました。
スパークリングだけでも怖いのに、それ以上のことが僕には困難でした。
その先輩から強くなりたかったら、空手よりもキックボクシングの方が強くなれる!と教わりました。
空手はみんなで、一つの目標に向かって稽古することに意義があると教わりました。
その先輩は、ブロック屋の親方になりました。
その後、植木屋を辞めて路頭に迷っていたらそれを聞き付けて電話をくれました。
『明日からでもいいから来いよ!』
嬉しかったです。
それから約12年、ブロック屋として精一杯汗をかきました。
三度目の手術するまで、ずっと全力で仕事をしました。
野見さんありがとう。