ぼくは、なんというか、あの、見城さんが、生きていてくださって、うれしいです
うれしいです
ぼくは、見城さんのトークを毎日拝読していて、「やっぱり、文章って、文章って、、、おもしろいよ、、、」と再確認させていただきました
それまでは、迷っていたんです
「いや、たしかに文章っておもしろいよ、、、でも、なんていうか、まあ、それだけのものじゃないのか、、、?そこまで文章にのめりこんじゃって、、、本当にいいのか?そんなに、これに捧げてはいけないんじゃないのか?」
でも、やっぱり、文章って、本当に、本当に、おもしろいんです
どうしよう
ぼくも、見城さんとは形は違いますが、大学時代に死を、考えていました
「みんな、こんなに自らの心を無視して、何で生きられるんだ?なんで、ありのままの自分に、眼を向けようとしないんだ?背伸びして背伸びして、そのために他人をバカにしてバカにして。おかしくないか?でも、こんなこと言ってるのおれだけだな。じゃあ、おかしいのはおれの方か?頭がおかしいのはおれの方なのか?じゃあ、何でおれみたいのが、いるんだ?」
居場所がなくて、自分が生きている意味もわからなくて、死にたかったです
でも、時代は少しづつ変わりました
だんだんと、良くなっているように、ぼくには感じられました
今では、生きていて良かったと思います
それと同時に、「生かしてもらったこの命、なにかのために、捧げてもいいのかもしれない、、、」とも思っています
捧げることの「最高の形」は、「死ぬこと」だと思います
でも、でも、死なずとも、命をその一瞬に捧げずとも、「生き続けながら、捧げ続けること」によっても、人間はいわばその「使命」を果たすことができるのではないか、とぼくは今思います
「愛するものや信念のために、死ぬこと」
やはりこれが、捧げることの「最高形」であることは、絶対に変わりません
しかし、ぼくは、もう少し、生きたい
できれば、できるだけ長く生きたい、と思っています
なぜなら、「変わっていく世界を、観てみたい」からです
ぼくは、大学時代に死ななかったおかげで、こうして見城さんに出会うことができました
今、とても、しあわせです
死ななくて良かったと、思っています
でも、ぼくも「試されるその瞬間」が来たら、もしかしたら命を捧げることになるのかもしれない、と思っています
でも、その時までは、少なくとも今は、生きていてとてもしあわせです
なんというか、うまく言えないのですが、とにかく、ありがとうございます!!
前へ次へ