
修治のトーク
トーク情報- 修治
修治 Kindle Unlimitedで無料で読めたので『飛鳥クリニックは今日も雨』を読んでみた。
読み始めて2ページで〝ダメだなこりゃ〟という感想。
まず文章が下手くそ過ぎ。
それになんだろ?これって歌舞伎町の外の人から見た歌舞伎町のイメージだよ😅
う〜ん、なんというか、書いてる人・プロットを創った人は中の人でも、なんかその...こういう風に書いとけば、一般人が読んだ時に、歌舞伎町らしさを感じてくれるんじゃないか?って思って作ったでしょ?ってのが私の感想(苦笑)
アンダーグラウンド感を出したいという意図が、自分の様な人間が読むと、すごくうすっぺらい印象に感じる。
書いてる内容も、全然珍しさも新鮮さも感じないモノばかり。
そもそも歌舞伎町の中で起きてる事は、それが一般的にみたら事件性のあるモノであろうと、加害者&被害者(という境界線すら微妙だがw)双方ある程度の覚悟や合意があって起きているか?或いは、あまりにアホでバカで人を舐め腐ったような人間達が自業自得で陥っているだけ...の結果なのだから。
特にドラマチックでもない事象に、無理に誇張や大袈裟感を加えようとすると、こういう駄作が出来るという良い見本だな、ここの作品は。
でも小説は売れたんだよね、それなら何より。大衆はアホだからね。 修治 No funNo fun ![投稿画像]()
原作に沿った作りではあるけれど、ストーリーとは関係ないエピソードや小説の「その後」まで映像化したのは、間違いなく監督のエゴだろう。
まぁ映画と小説との違いをアピールしたいのは解るけれど、原作を好きな人には疑問が残るだろうし、作家バロウズを知らない人には難解かなぁと感じます。
この作品はダニエル・クレイグに尽きる
乙女でジャンキーなクレイグが振られ続けるだけでも面白く愉快なのに、セクシャリティと禁断症状に苦悩するリーの演技は本物の孤独を知っていないと出来ないんじゃないかな。
それほどまでにクレイグはバロウズでした。
作家自身のエピソードが下敷きになっている今作ですが、解釈の余地を観客に与えた方が楽しめたんじゃないかなぁ思うと、少し残念ではある。- 修治
修治 ![投稿画像]()
映画のレヴューサイト見て、読んでみると...シップ・アホイにリーが2年後に戻って来て旧友と再会し、アラートンの現状を聞いた後に、煙草吸いながら酒を飲むシーンでカメラのアングルが切替わり、シップ・アホイの外の通りから、BARの中の2人を写すシーンになる。
その後で、リーが自宅の寝室のベッドで脂汗かきながら、横になってるシーンが映し出される。
その先は全てリーの妄想の中での出来事なのに、レビューの多くに『リーは晩年、老人になり、その老人になった時でも、当時のアラートンと過ごした時間が忘れられないままに、ベッドの上で死んでいく』なんて感想が多くて、ビックリした😅
つまり原作でも映画でも(映画は観た人に勘違いさせる要素が満載だがw)実際の物語は、リーとアラートンが一緒にジャングルにヤヘを探しに行って、そこから別行動を取って、2年後にリーが1人でメキシコシティのシップ・アホイに戻ってきたまで、のところで話しが終わる…という時間軸だ(そこから先は、映画の方はリーのモルヒネ中毒による妄想)
劇中でリーがモルヒネ中毒で、医師から『やめないと死ぬぞ』と警告されるシーンなどが挿入されているのだが…
最後の最後はリーの姿を、晩年のバロウズそっくりの格好にさせているんだから、バロウズの16、17歳の頃からファンだった監督のルカ・グァダニーノの【バロウズへのオマージュ】だと気づきそうなモノだが、でもそれは原作者の経歴や作品や姿を読んで、見て知っている人しか分からない事だ。
だからこそ小説に無いシーンを付け足す事で、バロウズに関するアレコレを知らない観客を置いてけぼりにしてしまっているのが、映画作品として残念な部分だな、とは思った。
観た人が、リーが最後に老人になってベッドでアラートンを想いながら死ぬ...なんて勘違いしてしまったのも無理ないのか、と思う。
そもそも原作では、リーが老人になるシーンなど無いのにね😅
原作ではリーはアラートンとジャングルに行き、そこで別れて別行動を取ることになっている。
ただ映画は3部構成だけど、第1章は最高に良かった。
ストーリーはほぼ忠実に原作を再現していたし、ゲイ御用達の2つのBARの雰囲気や、酒や食い物やファッションの描写も良い。
驚くべきはダニエル・クレイグの凄いプロフェッショナルな役者として仕事ぶりだ。かなり生々しく描写されていて、2人の俳優はよくあそこまでの演技が出来たなって思ってしまった。ちょっとアレは凄すぎたな。こう書けば、自分が何を言いたいのか?おわかりだろう。
第2章は監督の創作、オリジナリティが入っていた。でもそこは良い、別に原作まんまの映像化じゃなくても。
小説の方は結局リーはヤヘを入手出来ず〝こんな所にいても時間の無駄だ〟と悟り、メキシコシティに帰還するわけだが、映画ではコッター博士夫妻とリーとアラートンはヤヘを服用して、バッド・トリップの後で、リーとアラートンの2人の魂が触れあうような描写になっているw
しかも原作と映画ではコッター博士夫妻の性別が逆になっていた😅
問題は第3章の『メキシコシティへの帰還』の部分で、細かい設定や台詞は小説の中のモノをそのまま使っていたけれど、映画の方は、リーとバロウズが混在してしまう描写になっていた。
つまりクィアだけじゃなく、他のバロウズの作品や彼の生き様がMIXされた映像になっていた。ここも監督のバロウズへのオマージュだ。ただそれを純粋に『小説クィア』の映像化に期待したファンに観せるのはどうなんだろう??
自分は楽しめた作品だったけれど、映画観た後の観客に『色々と辻褄合わせしたかったら、バロウズに関するアレコレも読んで知って欲しい』というプレッシャー(それに気づかず、なんだかよく分からない映画だったな、って思わせてしまう可能性もある)は余計なモノの様に感じてしまったかな。 修治 No funNo fun 小説と映画の相互的分析はよくある手法です。
しかし、作家のパーソナリティや文体の癖を最小限の情報を交えながら書く事は至難の技です。
修治さんとの交流も長くなりました
それでもハッとさせられるトークが多いせいか、熟読したい文章は保存しています。
自分の感性を高めたいが為に意識的に文化的活動を行う事は、退屈で地味で成果が目に見えるまでには相応の時間を要する。
しかし自発的に好きなものを深掘りしながら、常に情報更新し続けている人の場合は自動的に感性の水脈と合わさるので、苦痛よりも喜びでしかない。
インフルエンサー?何それ
他人の感性に従う事は、ある種の他責思考であり“依存の入り口”でもある。
他人の光を借りているだけならまだしも、自分の思考や行動を育ててもらう代わりに支配される檻の中にいて、案外どうにもならなくなっていたりするものだ。
ビートニクの作家達がそうであった様に、結局のところ自分の感性は自分で磨くしかない。- 修治
修治 ベガーズさんとの交流も、思えば長くなりましたねぇ。途中で私がiPad変えたせいで、このSNSにログイン出来なくなった時期が1年以上ありましたけど😅
なんか昔に比べると、ここの凋落ぶりもヤバいですw
以前は映画や小説の話しが、もっと盛んだった時期がありましたけど、そういう人達が徐々に徐々に少しずつ、ここから去って行きましたね。
小説📕でも映画🎬でも、どの時代のどんな作品を読んだり観たりしているか?っていうのはありますよ。
共通項があるからこそ、人とのやり取りが活き活きとしてくるわけですから。
私も決して、古い作品群ばかり鑑賞しているわけではありません。
今の時代の作品も読んで、観てupdateしていかないと、懐古主義オヤジになってしまい、若い人達と話しが出来なくなってしまいますのでw
最近の作品を鑑賞することで、今の人達の感性に自分を適応させる...という様な考えは、特にはありません。
そういうモノって、私も飲食店を2軒やってますから、そこに来る老若男女のお客さん達、海外から来るお客さん達と交流することで自然と養われていきます。
最近の小説や映画からだけ、そういうモノを汲み取ろうとしても限界があるんですよね。
まぁ、どんな人でも生活している以上は人と交流します。
その交流する人達の年齢層が限定されてきてしまうと、自分の思想に偏りが出来てきそうです。
そういう人が年配者の方に多く見受けられます。
付き合う人達のいる業界や、接する人達の年齢層に幅があると、バランスの良い思考や思想になるのでしょうね。
メディア業界にいる方の感性が、ある程度の年齢以上になっても瑞々しいのは、上記の理由からでしょう。
しかしまぁ...私もそろそろカズさんが戻って来れば、このSNSも活性化するのにな、って思うことがありますね。
あの人はヴィスコンティの作品も観ていたし、音楽や読書の方面でも、実はかなりの博識でしたよ。単なるキャバクラ好き、おねーちゃん好きってだけではなくてww



