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Los Ingobernables💀

一般に嘘をつく事は悪い事であり、嘘つきは責められるべきだが、嘘をつかざるを得ない事情のある場合は、それを理解し許す必要がある。 「心が無い人」の問題はまさにそれであり、さらに「心が無い」という事自体も本人の責任ではなく、これを責める事はできない。 人間の精神は極めて多くの要素から複雑に構成されており、だからこそ「完全な人間」は概念でしかなく、誰もが何かを欠落させたまま生きている。 だから「心が無い人」がいてもおかしくないし、彼らを特別視して差別する必要もない。 「心が有る」ことは人間にとって必要条件でしかなく十分条件ではない。 さて、 「心が無い人」から「心とは何か?」の問題が浮上したが、「心」は恐らく《想像界》の産物である。 だから《想像界》の精神だけの人は、自分の「心」に振り回される。 同時に周囲の人も、コロコロ変わりゆくその人の「心」のあり様に、終始振り回される。 「心」が人間精神の《想像界》の産物だとすれば、それは実体のないイメージであり、移ろいやすく、他人の影響を受けやすい。 そんな「心」を調教しうまく飼い慣らすために《象徴界》の精神が存在する。 例えば安易な同情心はトラプルの元だが、《象徴界》でそれを律すれば「社会正義」にもなり得るのだ。 「心が無い人」がいるのと同時に「心だけの人」も世間には存在する。 「心だけの人」は同情して親切にしてくれる一方で、急に心変わりして冷たくなったりする。 「心だけの人」は自分の心のあり方を客観視できず、自分の「心変わり」も認識できない。 人間の「心の移り変わり」を律するのが《象徴界》の精神で、ありていに言えばモラルである。 モラルはあくまで「心」がベースになっており、「心」をより良く活かすためにモラルが存在する。 だから「心だけの人」はモラルを欠き、「心が無い人」は心とモラルを欠いている。 ラカンが提唱した三界を、《想像界》=心の世界、《象徴界》=モラルの世界、とあえて日常語に置き換えてみる。 そして「心が無い人」は、心もモラルも否定し、その精神は第三の《現実界》に依拠している。 この《現実界》に当てはまる言葉を日常語から探ると、《現実界》=身体、がしっくりくる。 あえて言えば、人間の精神は「心」と「モラル」と「身体」の三要素からなっている。 「心だけの人」はモラルを欠き、「心が無い人」は心とモラルを欠き、そして「身体としての精神」によってのみ生きている

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