じょんれのん。じょんれのん。 Sunday Mornin' Comin' Down
イエスタデイワンスモア
トーク情報- じょんれのん。
じょんれのん。 “ご存じのように、浮浪者がみんな望んでそんな生き方をしてるわけじゃない。1930年代の大恐慌が、何千人もの農夫や街中の労働者を社会から葬り去った。俺の親父は、貨物列車に飛び乗って仕事を探し行く人たちの中の一人だった。親父は浮浪者じゃなかった。職を求めて渡り歩くホーボーだったが、浮浪者じゃなかった”
“俺は思うんだが……俺たちは皆、人生のどこかで『心の放浪者』だったことがあるんじゃないかとね。昔と同じように、今も路上にさまよい出ていく人間が大勢いる。職探しのためじゃなく、自己実現したいとか、自分の人生を理解したいとか、『生きる意味』を見つけたいという理由で。彼らはもう貨物列車に飛び乗ったりしない。そのかわりに、メイン州からメキシコへ向かうハイウェイで、車やトラックに親指を立ててヒッチハイクする”
“そして、そうやって放浪する者たちの多くは……俺も含めて、自分が心の平安なんて状態からほど遠いことに気づくんだ。ボロボロの秘密部屋にこもってた方がまだマシだと。ある孤独な日曜の朝なんかにはね。今時そんな状況はあらゆるところにあって、気持ちを沈ませるんだ”
腹の底からふつふつと湧き上がって、胸の内を黒く塗りつぶしていくような孤独感。この寂しさとうまく付き合えたら、生きていくことはもっと楽になるだろうに。そんな気持ちになることがあります。
過去を振り返って、取り返しのつかない過ち、二度と話せない人たちの顔、失ってしまったものを苦い後悔とともに思い出すとき。「おまえだけじゃないよ」と、昔なじみの友人のような顔で隣を並んで歩いてくれる、そんな曲です。 - じょんれのん。
じょんれのん。 遺言
純、蛍 俺にはお前らに遺してやるものが何もない。
でも、お前らには、うまくいえんが、遺すべきものはもう遺した氣がする。
金や品物は何も遺せんが、遺すべきものは伝えた氣がする。
正吉や結ちゃんにはお前らから伝えてくれ
俺が死んだ後の麓郷はどんなか。きっとなんにも変わらないだろうな。
いつものように、春、雪が溶け、夏、花が咲いて畑に人が出る。
いつものように白井の親方が夜遅くまでトラクターを動かし、いつものように出面さんが働く、きっと以前と同じなんだろうな。
オオハンゴンソウの黄色の向こうに、雪子おばさんやすみえちゃんの家があって。もしもお前らがその周辺に“拾って来た家”を建ててくれると嬉しい。拾って来た町が本当に出来る。
アスファルトの屑を敷きつめた広場で快や孫たちが遊んでたらうれしい。
金なんか望むな。倖せだけを見ろ。
ここには何もないが自然だけはある。自然はお前らを死なない程度には充分毎年喰わしてくれる。
自然から頂戴しろ。そして謙虚に、つつましく生きろ。それが父さんの、お前らへの遺言だ - じょんれのん。
じょんれのん。 昨年秋、富良野で開かれた、「『北の国から』40周年記念イベント」で、その内容(粗筋)を自ら語って明かしています。
タイトルは『北の国から 2021ひとり』。
続編『北の国から 2021ひとり』の粗筋
会場で直接聞いた、倉本さんの説明によれば・・・
2002年、螢と正吉は息子の快(かい)を連れて福島県に行きます。
桜並木で有名な富岡町の夜ノ森に家を借り、正吉は富岡町の消防署に勤め、螢は診療所に勤めました。
2009年に「さくら」という女の子が生まれると、五郎はその子に夢中になり、なかなか富良野に帰りません。
それを純たちが連れ戻すといった出来事があります。
2010年、純の妻である結(ゆい)が、勤め先の店長と不倫をしたことで離婚。
2011年に東日本大震災が起きます。消防職員の正吉は人を助けようとして津波に巻き込まれ、行方不明となったのです。
その翌日、原発が爆発して全員避難することになり、正吉を探すことができない状況が何年も続きました。
2014年に避難指示が解除され、砂浜で正吉の手がかりを探しますが、見つかりません。
それでも五郎は必死になって砂を掘り続けますが、純は「もう、あきらめよう」と説得。富良野に連れて帰りました。
2018年、83歳の五郎は癌の疑いで病院に検査入院。ところが、MRIが怖くて途中で逃げ出してしまいます。
2020年、新型コロナウイルス感染の広がり。
札幌で医療廃棄物の処理を担っている、純。福島で看護師として働いている、螢。2人の仕事場はコロナ対応の最前線です。
その一方で、五郎は自身の「最期」を考え始めていました。強く望んでいるのは、「自然に還(かえ)ること」でした。