たぶぅーたぶぅー " WHAT KIND OF AMERICAN ARE YOU? "
たぶぅー
トーク情報- たぶぅー
たぶぅー 他人の評価はやっぱりバイアスが入るから映画は自分の目で観て感じるに限るんだなと思うことだった。
自分のモノの見方や解釈にも偏向があったと考え直した。
自分の見たいモノじゃなく何を描こうとしたのかを二作品通して素直に感じたならこのラストに込めた監督の問いかけは重かった。
賛否が別れるのもわかるけど好きか嫌いか?というと好きだと思う。
観てよかった。
アーサー・フレックという幼少期の虐待、ネグレクトに起因すると思われる精神疾患と情動調節障害という発作的笑いにより社会から弾かれ抑圧され拒絶と侮辱を受け孤立した本来は優しく思いやりだってある彼の人生の物語だった。
様々な登場人物それはハーレイにも個人的にはメタファーや暗示を感じた。
一作目で小人症のゲイリー・パドルズにアーサーが「君は僕にずっと親切にしてくれたただひとりの存在だ」と話す場面が印象的だった。阻害され続けた痛みをわかってくれるただひとりの理解者だったんですね。彼を含め一作目の登場人物はほぼ出てきた。
デニーロ演ずるマレー・フランクリンはもちろん出てこないが元々は尊敬し憧れていた彼に放った言葉「俺が歩道で死にかけても踏みつけて歩くくせに。俺は毎日あんたたちとすれ違ってる。でも誰も俺に気づかない。心を病んだ、打ち捨てられて孤独な男を、ゴミのように扱うと何を受け取ったか教えてやるよ!報いを受けるんだ!」と…
その後の行く末をどう解釈するかが本作の問いかけだと思う。
アーサーもジョーカーも暗示だと
作品全体を通して監督の意図を類推、考えさせられてしまった。
昨日の作品に続いて観終わったあと二、三時間は反芻しながら咀嚼した。
こんな時には誰かと感想を話し合いたいものだと思う限りです。 - たぶぅー
たぶぅー 上に貼った二枚の写真の意味。
一枚目はアーサーを見せ物にして笑いモノにしたマレーに銃を向けるアーサー。
元々はマレーの番組のファンで憧れていて、妄想の中ではこの番組に出て舞台の上で労いの温かなハグシーンを夢見た…その番組でマレーの自身への扱いの中に侮蔑と辱めを見抜き出演オファーされた電話口でアーサーの表情は既に冷え切っていた。
最初は自身の頭を下から撃ち抜き終わりにしようと思ったようなシーンも見られたが思い直し復讐に切り替わった。
二枚目は今作でアーサー自身の妄想シーンではあるが暗示的です。
ハーレイがジョーカーに銃を向けているがジョーカーを狂信的に支持するゴッサムの民衆と映画を観ている一作目のファンを含む顔の見えない世界中の観客をハーレイに重ねて見ることも出来る。
監督とホアキンが一作目に感化された世の事象にどう思い何を考え表現したかったか。
一方的にせよ信頼や期待、本人のコントロールを超えて肥大した憧れや熱狂の行く末を暗示する象徴的場面。
ホアキンの意見で脚本がかなり変更されているらしいが監督にもおそらく意図するモノがあったはずです。
しかしラスト手前からの転調にはそう来たかとか驚きや戸惑いを感じた。
結局自分は納得。
もう一度見に行きたいくらいによく出来ていて演技力も映像も素晴らしい。
ホアキンは前作よりも痩せこけて見えるし、ガガは好みのタイプでは無いがやはり魅了する存在だと思う。
存在感強かった。 - たぶぅー
たぶぅー 公開から一年半経ってようやく【TAR】を観た。笑
ケイト・ブランシェットが素晴らしかった。
彼女が演じるとまるで本当のマエストロのようだ。
前半が特に難しい。
感情表現は役者ならある程度安心して観ていられるが権威主義的なクラシック界の最高峰に位置するベルリンフィルの主席指揮者を違和感なく演じるのはかなりハードルが高い。
ジュリアード音楽院での授業中にある学生に放った「音楽の価値にジェンダーも人種も関係ない」という言葉が印象的でした。
本作のトッド・フィールド監督がこの作品を作るきっかけになったのは1970年台のハーバード大学でのレナード・バーンスタインの講義録を読んだからだそうでそれによれば「音楽とは空気を震わせるものであって、すべての音楽はノイズなんだ」と書いてあり感銘を受けた。それが企画のインスピレーションとなったそうだがケイト演じるリディアの音楽理論、様々な場面の美術や小道具たち、堂々とした立ち居振る舞いまで随所に拘りが深く感じられる。
写真はサントラだけどまるでグラモフォンの本物のクラシックジャケットだ。
ちょこちょこくすぐるなぁ
これは大きなスクリーンで観たかったなぁ。
最後まで音楽への献身がリディアの真の喜びだったんだなと一種の安心のような余韻が残りました。 - たぶぅー
たぶぅー ベターコールソウル/シーズン5まで観てジミーやキムでなく、チャックでもなくもちろんガス・フリントやトゥコやトゥコの叔父ヘクター・サラマンカなわけもないけど一番気に入ってるのはマイクだ。
亡くなった息子の嫁ステイシーがマイクを結局追い詰めていく原因を作ってしまう。
ジミーの暴走っぷりもだけどこれ観てると米人ってネジがぶっ飛んでるのかあまりに思慮が足りな過ぎてアホが多いのかしらと呆れ気味になるがいやいやドラマを盛り立てるために誇張なんだろうと打ち消したり、そう言えば子供の頃映画を観ながら、あれは13日の金曜日とかその類のやつなんか特にだけど観てるとなんでー!ダメに決まってるじゃないとハラハラ、イライラさせられた感覚に少し似てると思い出した。
只の元警官で駐車場の係をしているマイクにいくら自分が大変とはいえ生活費の多少の援助はまだしも複数回の引越し、しかも贅沢な広い家などいくらなんでもふたつ返事してくれるからとエスカレートし過ぎだし、遠慮や思慮無さすぎて…
寡黙なマイクがまだガス・フリングを始めとするカルテルの闇に絡め取られる以前の人間味や独自のルール、生き方が好ましいと思ってます。
長いストーリーもあと2シーズン弱だけどダレることなく観続けられるこの作品は凄い。
サラマンカファミリーの傍若無人っぷりとガスの冷静なビジネスマンっぷりの対比や喋れて意気のいいヘクターの姿が見れるのも確執の起点がよくわかる。
トゥコの出番は少ないけど最後らへんで出てくるのか?
[ブレイキング・バッド]以後も若干絡めながらなのも気になっていたからおもしろい。 - たぶぅー
たぶぅー 昨夜やっと最終話を見終わった。
裁判での自分自身を弁護するシーン
小さく「ショータイム」と…
その裁判の吐露と真意から結末の後の兄のチャーリー・マッギルとジミーのまだ兄が事務所を休んだばかりの頃の回想まででいつのまにかポロポロと涙が溢れていた。
もうシーズンが進むにつれてだんだんとジミーに感情移入出来なくなってしまった。
最終話でやっとわかった。
何をいったい見させ続けられているんだと段々と腹も立って来るしジミーやキムを見るのがかなりのストレスだったんだなと自分の気持ちや感情に気づいた
ジミーは益々スリッピング・ジミーの度合いがブレーキの壊れたアンストッパブルな暴走で周囲のすべてを巻き込んで破滅させるし自分をも結果的に痛めつけていく、張り切れば張り切るほど滑稽だし、悪い事態を引き起こす。
これは罪と後悔についての壮大なストーリーだったんだなと
ジェシー・ピンクマンには葛藤と後悔があったけどウォルターにはあまり見られなかった。(ただしピンクマンについてははっきり認めないけど後悔してる節があった)
ジミーもウォルターも自分が認め評価されないことへの感情と忍耐の爆発から始まったけど、ジミーは次第に自分の罪や悔恨に向き合うことを避けて蓋をして逃げてしまう。
感情に蓋をして金の問題だと短絡的な思考パターンに嵌め込むことで心をブロックしエスカレートに拍車をかける。
ウォルターにしたってプライドと傲慢の塊になり暴走していく。
マイクにしたってそれぞれの後悔があり、マイクは息子の件をきっかけに常に自身へも厳しかった。
しかし、あの展開はたまげた。
最後のジミーとキムのタバコを吸うシーン🎬にはもう感慨深いものがあったなぁ。