「桑田佳祐さんへ」
桑田佳祐さんのベストアルバム『いつも何処かで』の中におさめられた新曲『なぎさホテル』を初めて聴いた時、正直、胸が詰まるような感覚に襲われました。と言うのは、三十数年前、私はその新曲のタイトルと同じ名前のホテルに七年近く住んでいたからです。
桑田さんが描かれた詞のところどころに、過ぎて行った海辺での出来事がまるで魔法使いの水晶玉の中に去って行った過去が生き返ったようにまぶしく、しかもあざやかによみがえらせてくれているからです。
ちいさな人形のような若い2人が、海の光の中で笑っていました。秋の終り、人影の絶えた逗子の海は実に美しかったし、詞の中にある水のないプール"もまさにそのとおりでした。
ちいさな逗子の湾の沖合いに学生たちが操るヨットの白い帆が稲村ヶ崎の方にむかっていました。
「いったい桑田さんはいつ、どこで、この風景を見ていたのだろうか?」
当時、私は小説家を目指す不良青年で、女の子は女優を目指して懸命に生きていました。
私は何度も志を放り出そうとしましたが、年下の彼女は懸命に勇気付けてくれていました。部屋代も満足に払えない不良をホテルの人皆が応援し、彼女にも家族のように接してくれました。人の温もりの中で私たちは暮らし、湘南の四季の風の中で、海鳴りを聞いて生きていました。
もう2度と逢えないと思っていた人に再会させてくれて、桑田さん、あなたと、あなたの音楽世界にこころから感謝をしています。
最後のフレーズを口にしながら...。
♬ ♬ ♬
愛の言葉 熱い涙 心に染みて
君の微笑で気絶した
思い出に変わるホリデイ
ふたりの夏は今も続く
夢見る頃に僕はひとり
本当にありがとうございました。
2022年11月23日 朝日新聞
寄稿 伊集院 静
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