やすひとやすひと 先週のFNS歌謡祭で披露された「ノンフィクション」平井堅×平手友梨奈を見た。
やすひとのトーク
トーク情報- やすひと
やすひと たまに、水の中で、乱反射している光を見ながら、くぐもった音を聴いているような、そんな感覚に苛まれることがある。どこに太陽があるのか、あるいは何が正しいのか、まったく分からなくなって、光も音も何も信じられなくなるような感覚。それは、お祭り騒ぎの大喧騒の中、堪らないほどに孤独を感じている時とも似ているかもしれない。欅坂46の新曲「アンビバレント」を聴いて、そのイントロで、それと まったく同じ感覚を味わった。音と光が蜃気楼のように歪み混濁した感覚世界の中で、一人の少女が、ぶらぶら と歩いている、不穏な美しさ。でも、その直後、その感覚世界と現実世界が見事にぶつかって弾け散った。
二律背反の全否定、あっちの真実にも、こっちの真実にも首振って、じゃあ お前は真実の中で生きていないのか?って、自分を罵倒しながら、せせら笑っている。自分以外の人類が絶滅しない限り孤独なんて有り得ない、真実の愛がきっとある、だから救われる、なんて綺麗事、抑圧された夏の空論の下で無理なんかしたくない!虚しいくらいに空っぽな夏の空いっぱいに、アンビバレントな白と黒の花が咲く、そして また、一時の夏を経て、感情は水の中に戻ってゆくんだろうなあ。最後はちょっと切なくてジーンときたけど、でもホントめちゃくちゃカッコいいシックでゴージャスな花火みたいな楽曲で、心底テンションが上がった😂‼️✨ ただただ本当にカッコいい‼️「アンビバレント」最高‼️これは深夜0時に解禁しちゃダメなやつです(笑)テンション上がっちゃって まったく眠れる気がしません 😭😆✨
https://youtu.be/aeM6VF2XOn0 - やすひと
やすひと 自分は 目の前に ファンタジーが無ければ動きたくない。ドキュメントやノンフィクションまたは恣意的なフィクションなどの手法によって現実への問題提起ありきの打算的な表現っていうのが好きじゃない、というか、そこに意義を持っているような そのスタンス自体が なんだかなぁ と思ってしまう。自由を極端にはき違えた ただの傲慢から生まれた メシアニズム、本質が優れているからこその結果、なんていう演繹的で平凡な感動と賞賛によって盲目化する差別的思考、至上主義がもたらす形骸化した不感の地獄、すべて よく分からん、この世界は何も正しくない、だから すべてが正しくなり得る可能性がある、それが想像でありファンタジーだ。どうして すぐに答えを求めるのか、どうして自分が正しいんだと思いたいのか、どうして逆の立場 他の立場に立って 新たな想像ができないのか、どうして その立場的な新たな発見に感動したこと自体に価値を見出してしまうのか、違う、価値に捉われるということは それだけまた目が眩むということだ、だから常に変わり続けなきゃならんのだ、変わり続けること、それは決して正解じゃない、むしろ変わり続けることは正解から自ら遠のく行為だ、でも それが 価値なんじゃないかなあ ってなんとなく思った。詰まらない人生を生きたい。だから自分は目の前にファンタジーがある方に生きたい。なんちゃってフィロソフィー。いろいろ考えていたら パスカルの賭け が出てきた。この考え方おもしろくて好き(笑)早く映画「響- HIBIKI-」が観たい。謎に今週公開とばかり思っていた。公開は1ヶ月も先だった。甚だ勘違い。
やすひと 七色息子七色息子 「響-HIBIKI-」を観た。
「角を曲がる」を聴いた。
他人は 自分を映す鏡、ふと そんな言葉を思い出した。
でも、、、だったら どうして 他人は、自分と同じものを見ていないのか、って疑問、安心、不満、孤独。
みんな、何を見ているんだろう、その目は何にフォーカスを当てて、何を映しているんだろう、でも絶対、その視界の中に本当の私は入っていない。
自分の感情なんて誰も気にしていなくて、その自分だけの感情に優越と疎外を覚え、いつしか譲れないものとなった。
自信というか、自身の価値に気づいたんだ。だからこそに堪らない不安。だからそこに誰か居てほしい。
向けられる軽蔑の目も、羨望の目も、同情の目も、共感の目も、慈愛の目も、とにかく、その中に自分は居ないし、居てほしくないし、居てほしい。
ああ、なんか、それはダメだとか、これは素晴らしいとか、これは良いことだとか、それは悪いことだとか、ずっと言われているような気がする。
私が何かに感動しても、なんか勝手に理由付けられて、私が何かに恐怖しても、なんか勝手に診断されて、私が何かに怒っても、なんか勝手に諭されて、ほんと、なんか、自分なんて どこにもいない。
ああ、そうか、他人は あなたの鏡だとか 誰かが言ってたけど、自分も誰かにとっての鏡でしかないんだ。
自分は、誰かを映す鏡なんだ。手足はもちろん、感情さえも、誰かの思い通りに動いている。それが みんなが私に求めている「自分らしさ」なんだ。なんだそれ。
誰も 真実を映す鏡なんて欲しくないでしょ。だから ずっと私は偽らなければならない。本当の私に 誰も興味を持っていないように、本当の自分を 誰も好き好んで見たくはないんでしょ。
つまらない。自分を曲げて嘘つくことが思いやりで、素晴らしくて、褒められて、誰かのためになって、みんなしあわせになるなんて、つまらない。
だから私は誰の鏡にもなりたくない。だから彼女は一人きりで その角を曲がるんだ。
何枚もの鏡を割って血だらけになった彼女の手足。自分も誰かの鏡なんだと気付いて割れゆく彼女の姿。殊更に気高くて明るくて危なっかしくて可愛らしくて、全く何も見えていなくて、でも自身の価値には真っ直ぐで、そんな彼女の姿を見て、初めて自分の影に気付いた気がした。
一人一人一人きりで角を曲がればいい。実存主義なんて知ったこっちゃない。
それにしても、響とアルパカ、可愛かった️なあ😍笑やすひと 七色息子七色息子 自分は「生きづらい」この世の中で 生きている、自分は誰かの特別なんだ、でも、決して みんなの特別ではない、だから選ぶ、その誰かを、自分で選んでいいんだ、選んだって選ばなくたって所詮「生きづらい」世の中なんだ、だったら人を選ぼう、選ぶのにも努力がいる、選択肢を広げる努力が、自分の世界を広げる努力がいる、それが「生き甲斐」、何のために生きてるんだろう、こんなに辛い思いをしながら、その答えは、自分のことを特別だって思ってくれる人を選ぶためなんだ、出逢うためなんだ、今 周りにそんな人間なんていない…、だから探すんだ、選り好みめっちゃして、エゴを肯定して選ぶんだ。誰だって、選ぶ立場と選ばれる立場の狭間で右往左往してるもんだ、それを隠すのが上手い人は、なんだかいつも偉そうにしてるけど、内心はビクビクしてんだよ、偉そうにしてる人間ほど弱くて卑怯で保険かけて形だけ威張ってるもんだ、でも、その人に選ばれてしまったら、その人の立場は変わらないから、自分の立場も変わらないから、さっさと逃げよう、逃げずに頑張るって努力もあるけど、逃げる努力だって当然ある、自分の世界を広げるって意味では、逃げる努力のほうが何倍も苦しいかもしれない、でも そっちのほうが何倍も楽しそう、いずれ、逃げた場所に戻るというか、その場所を今度は自分が選ぶ時がくるかもしれない、それでもいいんだ、なんでもありなんだ、だって自分が選ぶんだもの、選ぶってのは覚悟がいる、でも覚悟っていうのは自分を強くする、その積み重ね、覚悟して挫折して覚悟して逃げ出して、だんだん強くなればいい、というか自然と強くなる、そうすると、本当に自分が何をすべきかがなんとなく感覚的に分かってくる、それを言葉にできるようになってくる、それには時間がかかるし、経験が必要、だから、まずは逃げて逃げて逃げまくって、自分の世界を自分のエゴで広げることって、必要なんだよなあ、と今日一日で長々と思った。さあ、寝よう!!笑