EriTozawaのトーク
トーク情報- 戸澤恵里
戸澤恵里 【読書日記】「新解釈現代語訳法華経」石原慎太郎著
私はこれまで法華経を読んだことがなく、石原慎太郎さんのこの本で初めて読んでびっくり仰天した。
「えぇ!?お釈迦さまって、こんなに“俺様系”だったの!?」と。
とある宗教法人のHPにて「法華経のあらまし」を読んでみたら、そんなことはなかったので、この本のお釈迦さまの感じは、石原さんの感性によるものなのだろう。
正直なところ哲学の本懐という意味では私にはフィットしなかったのだが、だからといって「意味がない読書」にはならないのが読書のおもしろいところ!私は、ここで感じた違和感が、次の読書への求心力につながった。
本書でとくに面白いと思ったエピソードは
如来寿量品第十六:
(本来は永遠である)仏を、永遠ではない存在、なかなか会えない存在に敢えて仕立てることで、人々は、仏を慕う心を起こし、行いを正すだろう・・・
という、まるで世阿弥の「秘すれば花なり」の源流のような表現。
「有難い」の起源は、なるほどここかと!
有り難いからこそ、ありがたいのだ。
有限であるからこそ刹那を全てとして生きることができる、という人間の性(サガ)を言い当てられていて、なるほどと思った。 - 戸澤恵里
戸澤恵里 今朝のYahooニュースを見て、これは一体どういうことなのだろうと思い、ArcTimesで田中優子氏と前川喜平氏がテレビ朝日HD株主提案について語るYouTubeを見てみた。
とてもじゃないけど、これは視聴者のことを思いやって作られた動画ではないと思った。
まず話が長い、カチカチとパソコンを打つ音が入って聞きとりにくい、話の要点が判然としない。
たった一人の視聴者さえ思いやれない人たちに、この先、テレ朝の視聴者や、テレ朝HDの社員の皆さんを思いやるような賢明な判断ができるとは思えない。
見城さんはGNOの人だ。
ご本人の意思で10年も審議会の審議長にしがみついていたわけがない。むしろ逆だろう。ずっと求められて任を果たされてきたということだと推察する。
YouTubeにしたって、見城さん自らが番組を立ち上げ、自ら発信したことなど一度もないではないか。
いつだって、井川さんや佐藤さんに求められて、あるいは、エッジの立ったトークが視聴者に評価されて、“人のために” ゲスト出演しているというのが実態だろう。
実際に動画を見ればわかることだが、見城さんが、何々審議会委員長などという肩書きでゲスト出演したことはないと思う。
いつだって、見城さんは見城徹という一人の人間として勝負しているし、視聴者だってそう思って見ているだろう。何某審議会なんて、私からすれば、本当にどうでもいい。
それなのに、審議会委員長の立場でありながら権力者との関係を口にしている、それが業界の未来に影響を及ぼしうるだなんて、なんという言いがかりだろうか。
見城さんは、それがどんな立場の誰であろうと、熱意と志をもって行動する人を評価している。それが時に安倍総理であり、時にさくらさん(昨日の、埼玉県の発注に歯を食いしばったエピソードは最高にすてき!)だったというだけだ。 - 戸澤恵里
戸澤恵里 【読書日記】「スマホ脳」/新潮新書/アンデュ・ハンセン著
メール受信やSNSの新着を知らせるバイブレーションが続くと、ソワソワしたり、度を超えると息詰まりを感じたりすることがないだろうか?その理由を、スウェーデンの精神科医が生物の歴史やしくみから解説している本。
人間は地球上に生まれた生き物で、私たちの“肉体”は、ここで生き延びることを是として全てを判断する。
スマホやタブレットなどの2次元世界に費やす時間が増えれば触れるほど、心身がストレスに感じてくるのは当然の理。だってそれは、3次元の世界で見れば「何もしていない」に等しく、生命のアラートが鳴って当然なのである。
本にしたって、タブレットで読む本と、紙で読む本だったら、圧倒的に後者のほうが経験値が高い。
タブレットは、実際のところ、同じ画面を一本の指先でこすっているだけで、見ている世界は二次元である。
本の場合は、立体であり、質感があり、10本の指でページをめくる動作がある。「あの話はこのあたりのこの辺にあった・・・」その立体感覚が大事なのだ!幼少期の教育においては特に考慮すべきことだと思う。
生命の歴史でみれば、BODYの発達が先、BRAINの発達は後。肉体の存続ありきで、それをうまく生き延びさせるために発達したのが脳なのだ。
スマホとの上手な付き合い方を改めて考えさせられる良書。翻訳が素晴らしかったことも付記しておく。(日本語に違和感がない&原著者のキャラクターがすんなり伝わってくる) - 戸澤恵里
戸澤恵里 【読書日記】「華の下にて」内田康夫著
花の下にて春死なむ、を知っている日本人は、このタイトルに自ずと西行の歌を重ね、なんとも言えぬ死の余韻を、儚い花びらの淡い色あいのうちに感じる。
まさに「花の下にて春死なむ」の生死の情感を下敷きに、「華」の下の人間模様を描く、完成度の高さ。
「そんなの、私のせいじゃありません」
登場する女性たちの、冷たさを感じるほど迷いのない澄んだ言葉遣いの数々が、私には妖艶で魅力的なものに映った。この潔さ。真似したいけど真似できないのだろうなあ。
“一人の人間の取るに足らないと思える言動が、他人や世の中に大きな影響を与える” この一節は特に心に残った。
一日一生、いや、一言一生なのだ。
「でも、すてき」
男の心の奥底にしまわれた女の言葉が、あまりにも普通であるがゆえに、どんな装飾ある言葉よりも、リアリティを感じた。 - 戸澤恵里
戸澤恵里 【読書日記】「精霊流し」さだまさし著
久方ぶりに雅彦(さだまさしさんを投影した主人公)が、長崎の昔の家に戻った時に見た、息を呑むような数百、数千の紅い薔薇。
その薔薇たちはその昔、泥水の中から、母のために持ち帰った、たった一輪の大輪の薔薇に遡る。
さだまさしさんは言葉に対して繊細だ。小説のあらゆるシーンの表現が “生きている” それが素晴らしい。
そんなさださんが、幼少のみぎり、バイオリンのコンクールで入賞するほどの腕前の持ち主で、その音楽で早くから挫折を経験していたことは、この小説を読むまで知らなかった。
その挫折こそが、彼の音楽を作った。
そんな彼に寄り添い、各々のタイミングで去っていた、家族/友人/恩人の大きな愛が、彼の音楽を作った。
小説を読むと、そのことがよくわかる。
私は「精霊流し」を実際に見たことはないが、この小説を読むと、途方もない数の花火と爆竹が使われるらしい。お祭りでもないのになぜだろうと疑問に思ったが、一つ思い当たることがある。
花火は、遠くで見ると分からないものだが、ごく近くで見ると、こちらの内臓が揺れるかと思うほどの振動がある。
よく映画やドラマのシーンで、人が亡くなりそうになると、身体をゆすって起こそうとする。
生命とは振動である、ということを、私たちは本能的にわかっているからであろう。
失意の人を無言で慰め、花火や爆竹の音で魂を揺さぶる。そのことによって、人びとはそれぞれに、
「私は生きている」と実感する
「あなたは生きよ」と応援する
そういうことなのかもしれない。 - 戸澤恵里
戸澤恵里 【読書日記】「後世への最大遺物」内村鑑三
時は1894年7月、箱根で行われた内村鑑三の講演会をまとめたものだ。文庫本100ページにも満たない。
1894年といえば日清戦争開戦の年、また、領事裁判権をようやく撤廃できた年でもある。そんな歴史の一ページの中で、芦ノ湖畔で内村鑑三がこんなふうにオヤジギャグを言い、戦争反対と言っていたと思うと、130年前の人々に親しみがわく。
そう、彼は講演会のっけからオヤジギャグを言っている。明治時代からオヤジギャグが存在したのか!新鮮だ。
曰く、
(キリスト教の演説は、普通立って話すのに、椅子に座って話をする自分は)「この講師が嚆矢であるかもしれない」(満場大笑)
とある。講師が嚆矢(こうし=一番初め)ってわりと高度なギャグではないか?音で聴いて満場大笑いできる聴衆、語彙豊かだなあ。
個人的に心に響いた箇所はもっとたくさんあるが、ここでは「キリスト教徒第六夏期学校」と銘打った講演とは思えない、ユニークな発言をいくつか紹介したい。
「後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切なものがある。何であるかというと金(かね)です」
「(N氏に雑誌「基督教青年」をどう思うかと聞かれ)失礼ながらすぐに厠へ持っていきます(=トイレットペーパーにする)」
「(怒り心頭のN氏に)つまらない議論をアッチから引き抜き、コッチからも引き抜いて、鋏と糊とでくっつけたような論文を出すから私は読まないのです」
「批評でも載すればそれが文学者だと思う人がある。それで文学というものは怠け書生の一つの玩具になっている」
「女よりは女のいうようなことを聴きたい。…中略…老人よりは老人の思っているところを聴きたい。それが文学です」
「ただ我々の心のままを表白してごらんなさい。ソウしてゆけば文法は間違っておっても、世の中の人が読んでくれる」
「先生になる人は、学問ができるよりも、学問を青年に伝えることのできる人でなければならない。伝えることは一つの技術です」
「他の人の行くことを嫌うところへ行け。他の人の嫌がることをなせ」
「負けるほうを助けるというのではない。私の望むのは、少数とともに戦うの意地です。その精神です」
「己の信ずるところを実行するのが真面目な信者です」
そして、後世に残し得る最大の遺物は、“勇ましく高尚なる生涯”これは限られた人に向けられた言葉ではなく、むしろその反対だった。私たちの誰もが持ちうるもの、最大の遺物こそが“勇ましく高尚なる生涯”だそうだ。