映画『ラストレシピ 麒麟の舌の記憶』を観た。人生の師匠、先輩方が関わっている作品なのに、なかなか映画館に足を運ぶ時間が取れず、歯がゆい思いをしていた。
ようやく見ることができたその映画は、極上の料理そのものだった。よくできた料理が、口の中で渾然一体として、ひとつひとつの食材が一瞬なにかわからなくなる陶酔に誘うのに似ている。物語を体験してそのあと、自分が何に感動しているのか、わからないくらいに涙があふれる。
この映画を観ると、人生には無駄なことなんて一つもない、という、当たり前だけど、すぐに忘れてしまう、いちばん大切なことが体感できる。冒頭からラストシーンに至るまでに、すべてのことば、画に企みがあり、物語のラストシーンではそれらすべての意味が解き明かされる。人が生きるということは傷つき喜び、負けては勝ち、そのすべてを味わうことなのであると。極上の料理には微かな苦味や華やかな甘みすべてがほのかに交わり、不可欠な要素として美味を完成させるのと同じことなのかもしれない。そして、人が生きた意味は必ず未来につながれていく。料理の記憶、秘密のレシピが食べた人を介してまた新たな味わいを生み出すように。
まぁ、こんな風にタラタラと書けるのは、観終わって2、3日してからだ。観劇後は目から水分を失い、クラクラしてしまった。よくわかんないまま嗚咽していた。
思い返せば役者はみんなよかった。特に西島秀俊と宮崎あおいの夫婦には胸が締め付けられた。綾野剛は喋らないほどに雄弁である。いつも自分が持ち得ないものに憧れる。
ラストレシピは完成しない、人から人へ思いとともにつながれていくから。永遠に更新され続けるのだろう。この極上の一皿を平らげたぼくや他の誰かが、また一日一日の喜怒哀楽に新たな意味を見つけて、それぞれの人生という料理の完成に向けて下ごしらえや火入れをはじめるのだ。
いまの自分にとって本当に必要な映画を観ることができた。すべての製作者、役者たちに最大級の尊敬と隠し味の嫉妬を込めてブラボーと大声で叫びたい。いや、この映画へ贈ることばはこれか。
『たいへん美味しゅうございました。ごちそうさまでした』
http://www.last-recipe.jp/sp/index.html
三浦崇宏のトーク
トーク情報- 三浦崇宏
三浦崇宏 博報堂での10年間を赤裸々に振り返りました。
「こんな地味な部署にぼくみたいな注目の新人が配属されるなんてサプライズ人事ですねぇ」(本文より)
・・・今、思い返すと死にたいけど、頑張って書いたので読んでもらえると嬉しいです!
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55919 - 三浦崇宏
三浦崇宏 無謀漫遊記。観るというより立ち会うという印象。舞台で演じられる物語と、一人一人の役者が切実に生きている現場がクロスオーバーする。彼らの正念場であることがひしひしと伝わる。その切実さに、胸ぐらを掴まれる。頬をひっぱたかれる。
『盤上この一手』という将棋の言葉がある。
役者も、あるいは劇中の登場人物も、抜き差しならない人生の正念場で、逃げることもかわすこともできず、自分の役割を全うし、生き切るしかない。
横内さん、お会いしたことはないが、つかこうへいの名前を冠したシリーズで、初めての完全オリジナルで立ち向かう。その正しく正念場に向き合う彼の葛藤が、執念が、その迫力が、巻き込まれて、飛び込んだ役者たちの躍動を通じて痛いほど伝わる。
ぼくはぼくの人生の正念場とちゃんと向き合えているだろうか。答え合わせはまだ先だ。
劇の最後に、主役を演じた岡森さんという役者が、胸を張って言った。『これが、現時点での最高傑作です』と。その言葉に嘘はないだろう。彼らは彼らの正念場を生き切った。あとは、この現場に立ち会ったすべての観客が、バトンを受け取り、走り出す番だ。
なにかをつくることに関わるすべての友人たちへ。生きているならば、生き続けるならば、このエネルギーに立ち会う機会を逃さないで欲しいなぁ。
横内さん、役者のみなさん、お疲れさまでした。バトンはたしかに受け取りました。
そして、このこの世ならざる現場をプロデュースしたきっかけである、見城さん、やっぱりすごすぎる。ありがとうございました。