ログイン
詳細
三上雅博

大好きな祖母が死んだ時、お店の予約があって通夜も葬式も行けなかった。 僕に予約を断る選択肢は無い。 その時は晩年の美空ひばりがステージに立つ姿を思いながら、仕事に全力を尽くした。苦しくても辛くても悲しくても、お客さんには関係ない。笑顔でベストを尽くすのみ。 「お婆ちゃんは僕が通夜に行くより鮨を握って人を喜ばせてる方が喜んでくれる」 親戚にはそう言い放ち鮨を握り続けた。 祖母は本当にそう思ってくれていた様に思うのです。

前へ次へ
三上雅博のトーク
トーク情報
  • 三上雅博
    三上雅博

    おはようございます。
    凄すぎる土砂降りの雨。

    昔テレビで、今この瞬間に人間だけが忽然と消えたらこの世界はどうなるかと言う番組を観た。
    1日後→3日後→1週間後→1年後→10年後→50年後と、どう移り変わっていくかシュミレーションすると言う内容でした。

    人間が消えると何が起こるか。
    人間が作った物はほとんど何も残らない。
    ピラミッドとか顔岩は残るらしい。

  • 三上雅博
    見城徹見城徹

    仲良しこよしは意味がない。サークルみたいな飲み会に毎夜行っても意味がない。異業種交流会に参加しても意味がない。本当の人間関係はそんなところからは何も生まれない。そんな時間があったらひり付く孤独に耐えて自分のキラーカードを磨くことだ。それさえあれば仕事や人は向こうからやって来る。

  • 三上雅博
    三上雅博

    大阪に来て雇われでお店をやっていた時は、大阪にほとんど知り合いもいない状況下だった事もあり、知人に勧められた異業種交流会に参加しました。

    毎週朝の6:30くらいからホテルに集まり1分間スピーチしたり、どれだけ会に貢献できたかを発表しあう。
    3回行って辞めました。

  • 三上雅博
    三上雅博


    「魚の声が聞こえる男、鮨職人三上雅博です」
    スピーチの時に言ってた言葉。笑
    今思うと恥ずかしい。

  • 三上雅博
    MiRAIMiRAI

     石原慎太郎さんは子供の頃、小樽に住んでいらっしゃた。5歳から12歳までの7年間。自我が確立するであろうデリケートな頃だ。葉山や逗子と同じ位、父親と過ごされた極寒の地、小樽に思い入れがあるに違いない。

     小樽・緑町の地獄坂。海陽亭。見城さんが石原慎太郎さんをmikami limited 50にお連れしたかったという気持ちを、私なりに追いかけている。毎晩切ない。押忍!

  • 三上雅博
    三上雅博

    オタモイ団地を出て、15歳から住み始めたアパートが緑町の地獄坂を登りきった場所にありました。

  • 三上雅博
    三上雅博

    僕がよく手伝いに行っていた小樽の名店には、石原まき子さんのサインや写真が沢山飾ってありました。

    小樽には石原裕次郎記念館や西部警察のミニパークがありましたが現在は閉館しています。

  • 三上雅博
    三上雅博

    石原慎太郎さん裕次郎さんご兄弟が少年時代を小樽で過ごしてくれた事をずっと誇りに思っているのが生粋の小樽市民です。

    そして僕の弟の名前も字は違いますが「伸太郎」です。笑