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sunnyelephantのトーク
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  • 大江陽象
    大江陽象

    私は今年42歳。1997年に大学生になった年代だ。日本が今に至るデフレに突入した最初の年に高校を卒業し、社会に出た世代。以来、JAZZという音楽にかかわり始めて、早いもので23年もの月日が流れてしまった。ここらで、ひとつこれまでの音楽遍歴を記しておこうと思う。

     私の生家は福岡市から車で1時間のド田舎で、先祖代々の土地を耕して生きてきた典型的な農家、公務員と兼業の父と祖父、祖母が携わる田んぼや畑、果樹園の仕事を幼いころは、よく手伝っていた。本や漫画が大好きで、頭でっかちで、ひょろ長いだけ子供だった。田舎の子供の地域カーストの中で、常に最下位におしこめられているような、ちょっと可哀そうな、自身のない、内向的な子供だった。 

    一家は音楽には全く無縁。家にはピアノはあったが、僕は全く興味を示さず、両親にも息子にピアノを習わせるような発想は皆無で、まさか自分が将来、ここまで音楽にかかわる生き方をするとは、周りの誰も想像しなかっただろう。

     そんな僕が音楽の演奏に初めて興味を持ったのは1996年の初夏。高校の近くのイベントホールで『福島泰樹:宮沢賢治生誕100周年短歌絶叫コンサート』なるイベントが予備校の河合塾主催で催されたときに、興味本位で行ってみたときだった。
     文字通り、短歌をや詩歌を叫ぶように朗読する福島泰樹氏のバックで、石塚俊明さん(drums) 永畑正人さん(piano)菊池雅司さん(尺八)が、非常に叙情的で情熱的な演奏を繰りひろげるステージだった。
     当時の僕は同世代の若者と同じでBeatlesやStones,DeepPurpleやNirvanaをきいていた。  友人のライブにも通ったりして、音楽を楽しんでいる普通の高校生で、自分が楽器を演奏する側になるとは全く想像したことが無かったのだか、、このときの石塚俊明さんの叙情的なドラミングに衝撃を受け、初めて、'自分もやってみたい'と、表現への欲求が芽生えたのだった。
     当時高校3年生、その後は(石塚俊明さんが結成メンバーだった)日本の伝説的ロックバンド『頭脳警察』に傾倒し、左翼的で叙情的な70年代の若者たちの純で激しい世界に魅了されていった。
     なにせ卒業イベントのライブで、ギター弾ける友人に無理をいって頭脳警察の『さようなら世界夫人よ』と『あばよ東京』をバンドで熱唱するという、、周りの世界から浮きまくったすごく変な奴でした。(付き合ってくれた友人、すごいなぁ。。)

    これ、当時はまってた頭脳警察、

    https://youtu.be/Hzh3BpezmpU


    JAZZに出会う前夜、青春特有の感受性と、不遇だった子供時代の鬱屈した感情をため込んだまま、1997年春、期待と不安に胸を膨らませながら、九州大学経済学部に入学したのだった、

    初日はこのへんで、、、

  • 大江陽象
    大江陽象

    忘れもしない1997年12月29日。
    博多、赤坂バックステージ
    年末ジャムセッション

    97年春からジャズ研に属してはいたが、、
    実際に他人とセッションするのは
    片手で数えるほどの経験しか無かった当時、
    なぜ、福岡市近郊のアマチュアからセミプロミュージシャンが集うバックステージの年末セッションに行ったのか、、
    今となっては思い出せない、、

    ただ、非常に精神的に苦しい時期だったのは間違いない。
    大学に入って出来た恋人とは、ひと夏の情熱で、秋になって別れを告げられ、、
    苦い思い、自己嫌悪、生きづらさの中で足掻いていた。。
    何か、、賭けるものが欲しかったのか、?

    とにかく、その年末ジャムセッションに
    僕は参加した!
    何の曲をやったのか、自分が何をしていたのか、全く思い出せないのだけれど、、はっきり言えるのは、僕はそこで何もできなかった
    ことは間違いない。当たり前なんだけど。

    多分僕は、何にもできないのを、わかっていて、敢えてそこに参加したんだと思う。

    何にも無い自分を再確認するために、、

    年明けの98年正月以来、
    足掛け5年に渡る、
    哀れな歪みまくった若者の、
    効率の非常に悪いジャズ修行が始まった

    それ以来、5年もの間、年間150日以上、博多バックステージに500円玉を握りしめて通い詰めた、、
    毎日21時から地元の、アマチュアが練習バンドで出演していて、その休憩時間の合間に1曲、終わりがけに1曲、バンマスの方に頭をさげて、
    飛び入りさせてもらっていた。
    決して素直で気持ちいい少年ではなかったはずなのに、、切羽詰まった必死を哀れに思われたのかもしれない。、、
    当時、快く受け入れてくださった大人達に感謝、、
    バックステージのマスターは
    怖くて、毎回のように叱られた、、
    ありがたかった。。







    それにしても、なぜなんだろう??
    ジャズという音楽に惹かれていたわけではないのに、、
    ただ何かをやりつづけている自分に
    ならないと、、日々襲ってくる虚無感や生きづらさに耐えられなかったのかもしれない、、

    そうした日々の中、
    私がジャズに本当にハマった
    あるレコードとの出会いがあった。。

    つづく

  • 大江陽象
    大江陽象

    1998年正月、突如としてjazzを志した僕は、毎日部室に行ってドラムを練習したり、レコードを聴いたりして何時間も過ごした、、かというと、じつはあまり覚えていなく、、、おそらく今から見れば、やっていたとしても、まったく効率の悪い、的を得ていない練習を毎日していたのだと思う。

    人間の精神というのは本当に
    幼少期の体験が影響すると思う。
    (決して育った環境のせいではありません!)

     人間が一番感受性が豊かで、まともに育った人間なら、一番夢中になって練習するであろう19歳-23歳のこの時期に、僕の精神は『劣等感』『自己嫌悪』『他者不信』『自己憐憫』『嫉妬』『甘え』などがごちゃ混ぜになった深い霧の中にいるみたいな時期だった。

    なにひとつまともにできなかった。学業もバイトも恋愛もドラムも。。沢山の人に迷惑をかけながら、もがいていた。

    その痛々しい純粋さだけを、周りの大人たちは受け止めていてくれたのだろう。。ありがたかった、、

    そんな深い霧の中から、見える唯一の希望の光が『jazz』だった。

    いまでもはっきり覚えている。当時アルバイトをしていたjazzcafeの常連さんから譲っていただいたレコードの中にあった

    『ハーフノートのWINTON KELLY』というレコード

    このレコードが僕の運命を変えた。ドラマー、JIMMY COBBが刻みだす、空間の中を永遠に突き抜けるようなシンバルの4beat!!




    そのとき僕は『なんだ!!!?これは??!』と思った。
    4分音符、こんなにシンプルなことが何でこんなにカッコいいのだ!?

    このことがあってから、ますます僕はジャズにのめりこんだといってもいい。
    この’謎’を自分の身で体感したい、自分もSWINGしたい!と思った。
    JIMMY COBBがいなければ、今の僕の人生は全く違うものになっていたのかもしれない。。

    それからというもの、僕は学校に適当に(笑)通いながら、バイトしながら、ひたすらJAZZを聴き、レコードを漁り、JAZZ喫茶に通い、部室で練習し(非常に効率の悪い練習だが)、、そして週に3-4回は怖~い平子マスターがいる、バックステージで地元のアマチュアバンドの練習を聴き、1-2曲合間に練習セッションさせてもらっていた。。もちろん怒られながら、呆れられながら、、

    この時期にもし僕が普通の健全な青年だったらドラムの練習に猛烈に取り組み、短期間で腕を上げていたはずだ。でも全くそうはならなかった。。

    このことは僕をイバラの道に叩き落とした、、と同時に、大きなプラスを私にもたらしてくれたともいえる、、

     当時の僕は(あるいは今の僕も)本心から『プロのドラマーになって毎日いろんな音楽を演奏し、お金を稼げるようなミュージシャンになるぞ!』なんて思ったことは無かった。。。    ただひたすらに『どうやったら、あのJIMMY COBBみたいにSWINGできるのか?』ばかりを考えていて、、いつのまにかロックやファンクなどを毛嫌いし、さらには西海岸の白人jazzまでも『beatが違う!!』と否定するような極端に狭い考えにとらわれていた。。

    もし僕がよくいるドラム小僧で、10代からドラマーを志していたら、、こんんなにも深く一つの音楽の美学にのめりこむことは無かっただろう、。だってテクニックがあれば、叩けてしまうだろうから、深く考えなくても、仕事もらえる程度なら、、それでいいし、稼げるならば。。

    そうならなくて本当に良かったと、今では思う。健全な精神を持てなかった苦しみは、副作用として、一つの美に狂う狂気を僕にもたらした。

    まさに諸刃の刃だったが、、その狂気は僕にとっての大きな幸せに後年結びつくことになる、、