ちょっと検索して感銘受けた。
「教養って、人の気持ちを理解するってことですよ。」
難しいこと、複雑な論理でいろいろやるかもしれませんけど、
結局教養って、人の気持ちをどれだけ思えるか、ってことです。と。
教養って自分も意識したりするし、無意識のうちにらしいことを求める気持ちはあるけれど、ひとことで納得する説明が付かない概念のようなふわっとした認識しかなかった気がする。
それは好きな音楽を求めたり、深く掘り下げたり広く分野(ジャンル)の垣根を超えて聴き込んだり、興味の赴くままに雑多に映画を観ることだったり、本に救いを求めたり、それが知識欲を満たしたり、新たな感情をそれらを通して擬似体験し、いろんな刺激を得ることが教養らしき体験?
もしくは実際の体験や経験から学ぶことだったり…
それら複合的に重なり合ってらしきモノが身につくのだと思っていた。
でもそれらは自分のごく個人的な精神の充足を得て、豊かな気持ちになりたいある意味エゴイスティックな行為かも知れない。
貧すれば鈍するとかそんなふうになるのはみっともないし、見苦しいし好みじゃない。
「いき」の構造とかに限らず様々な人の書いたモノの本に親しむことも教養を深める行為だろうし、
それとは少し外れるかも知れないが何かに耽る。
その快楽や苦痛、苦味や悦びを知ることも広義の上では教養じゃなかろうかとも思う。
その知識や体験の範囲や許容量を広く深く掘り下げ、様々な感情を知り得ることが他者の気持ちを理解するという帰結に辿り着く。
なるほどねーっと納得した。
ちょっと感心したので日記に記しておく!笑
あと、講演:「ラグジュアリー――顕示的浪費から感覚的快楽まで」
ニューヨーク州立ファッション工科大学付属美術館ディレクター兼チーフ・キュレーターヴァレリー・スティールの講演録も興味深かった。
" ラグジュアリー(贅沢)は単に高価なものを享受することだけではありません。その言葉にはより多くの意味が込められています。例えば、官能的な悦びに過剰なほどのめり込んでしまうことも含まれます。実際、この語の語源は、「肉欲lust」や「好色lasciviousness」を意味するラテン語の「1uxuria」に由来します。ラグジュアリーは常に論議を巻き起こしてきました。プラトンのような影響力のある思想家たちは、ラグジュアリーによって道徳的堕落が引き起こされてしまうと考えていました。ある文筆家は、「ラグジュアリーの柔らかなベッドの上であまたの王国が滅んでいった」と書き、詩人のミルトンは、「いまやあらゆるものが……肉の享楽 ラ グ ジ ュ ア リ ーと酒宴に、……変わってしまっていた」(訳註1)と書いています。"と始まる文章は興味を引いた。
カリギュラを連想するし、そもそもラグジュアリーとは感覚的に快楽主義だと思う。
それもこれ見よがしではなく、他者にはわかりにくい密やかな快楽を求める行為。
触ったことはないがビキューナだったり、今やUNIQLOで安価に手に入れられるカシミヤも昔はなかなか手に入れ難かったし高価だった。
わかりやすいアイコニックなブランド品は今や大衆化され金さえ払えば誰にだって手に入れられる。
そんなモノになんの深い快楽が得られようか?
それとわかりにくいが滅多に手に入らぬ希少な逸品。
別格な肌触りや使い心地など秘匿性の高い物だからこそ昂ぶるし官能的なのだと思う。
このことを識ることが審美眼を磨くことだし、引いては「人の気持ちを理解する。」にも通ずる。
だって否定論者は常に何処かにいるし、然しそれは実際に体験してみると抗い難き愉楽であるからだ。
https://www.kci.or.jp/articles/files/D54_Steele_Luxury_Conspicuous_Extravagance.pdf
たぶぅー
トーク情報- たぶぅー
たぶぅー 上に貼った二枚の写真の意味。
一枚目はアーサーを見せ物にして笑いモノにしたマレーに銃を向けるアーサー。
元々はマレーの番組のファンで憧れていて、妄想の中ではこの番組に出て舞台の上で労いの温かなハグシーンを夢見た…その番組でマレーの自身への扱いの中に侮蔑と辱めを見抜き出演オファーされた電話口でアーサーの表情は既に冷え切っていた。
最初は自身の頭を下から撃ち抜き終わりにしようと思ったようなシーンも見られたが思い直し復讐に切り替わった。
二枚目は今作でアーサー自身の妄想シーンではあるが暗示的です。
ハーレイがジョーカーに銃を向けているがジョーカーを狂信的に支持するゴッサムの民衆と映画を観ている一作目のファンを含む顔の見えない世界中の観客をハーレイに重ねて見ることも出来る。
監督とホアキンが一作目に感化された世の事象にどう思い何を考え表現したかったか。
一方的にせよ信頼や期待、本人のコントロールを超えて肥大した憧れや熱狂の行く末を暗示する象徴的場面。
ホアキンの意見で脚本がかなり変更されているらしいが監督にもおそらく意図するモノがあったはずです。
しかしラスト手前からの転調にはそう来たかとか驚きや戸惑いを感じた。
結局自分は納得。
もう一度見に行きたいくらいによく出来ていて演技力も映像も素晴らしい。
ホアキンは前作よりも痩せこけて見えるし、ガガは好みのタイプでは無いがやはり魅了する存在だと思う。
存在感強かった。 - たぶぅー
たぶぅー 公開から一年半経ってようやく【TAR】を観た。笑
ケイト・ブランシェットが素晴らしかった。
彼女が演じるとまるで本当のマエストロのようだ。
前半が特に難しい。
感情表現は役者ならある程度安心して観ていられるが権威主義的なクラシック界の最高峰に位置するベルリンフィルの主席指揮者を違和感なく演じるのはかなりハードルが高い。
ジュリアード音楽院での授業中にある学生に放った「音楽の価値にジェンダーも人種も関係ない」という言葉が印象的でした。
本作のトッド・フィールド監督がこの作品を作るきっかけになったのは1970年台のハーバード大学でのレナード・バーンスタインの講義録を読んだからだそうでそれによれば「音楽とは空気を震わせるものであって、すべての音楽はノイズなんだ」と書いてあり感銘を受けた。それが企画のインスピレーションとなったそうだがケイト演じるリディアの音楽理論、様々な場面の美術や小道具たち、堂々とした立ち居振る舞いまで随所に拘りが深く感じられる。
写真はサントラだけどまるでグラモフォンの本物のクラシックジャケットだ。
ちょこちょこくすぐるなぁ
これは大きなスクリーンで観たかったなぁ。
最後まで音楽への献身がリディアの真の喜びだったんだなと一種の安心のような余韻が残りました。 - たぶぅー
たぶぅー ベターコールソウル/シーズン5まで観てジミーやキムでなく、チャックでもなくもちろんガス・フリントやトゥコやトゥコの叔父ヘクター・サラマンカなわけもないけど一番気に入ってるのはマイクだ。
亡くなった息子の嫁ステイシーがマイクを結局追い詰めていく原因を作ってしまう。
ジミーの暴走っぷりもだけどこれ観てると米人ってネジがぶっ飛んでるのかあまりに思慮が足りな過ぎてアホが多いのかしらと呆れ気味になるがいやいやドラマを盛り立てるために誇張なんだろうと打ち消したり、そう言えば子供の頃映画を観ながら、あれは13日の金曜日とかその類のやつなんか特にだけど観てるとなんでー!ダメに決まってるじゃないとハラハラ、イライラさせられた感覚に少し似てると思い出した。
只の元警官で駐車場の係をしているマイクにいくら自分が大変とはいえ生活費の多少の援助はまだしも複数回の引越し、しかも贅沢な広い家などいくらなんでもふたつ返事してくれるからとエスカレートし過ぎだし、遠慮や思慮無さすぎて…
寡黙なマイクがまだガス・フリングを始めとするカルテルの闇に絡め取られる以前の人間味や独自のルール、生き方が好ましいと思ってます。
長いストーリーもあと2シーズン弱だけどダレることなく観続けられるこの作品は凄い。
サラマンカファミリーの傍若無人っぷりとガスの冷静なビジネスマンっぷりの対比や喋れて意気のいいヘクターの姿が見れるのも確執の起点がよくわかる。
トゥコの出番は少ないけど最後らへんで出てくるのか?
[ブレイキング・バッド]以後も若干絡めながらなのも気になっていたからおもしろい。 - たぶぅー
たぶぅー 昨夜やっと最終話を見終わった。
裁判での自分自身を弁護するシーン
小さく「ショータイム」と…
その裁判の吐露と真意から結末の後の兄のチャーリー・マッギルとジミーのまだ兄が事務所を休んだばかりの頃の回想まででいつのまにかポロポロと涙が溢れていた。
もうシーズンが進むにつれてだんだんとジミーに感情移入出来なくなってしまった。
最終話でやっとわかった。
何をいったい見させ続けられているんだと段々と腹も立って来るしジミーやキムを見るのがかなりのストレスだったんだなと自分の気持ちや感情に気づいた
ジミーは益々スリッピング・ジミーの度合いがブレーキの壊れたアンストッパブルな暴走で周囲のすべてを巻き込んで破滅させるし自分をも結果的に痛めつけていく、張り切れば張り切るほど滑稽だし、悪い事態を引き起こす。
これは罪と後悔についての壮大なストーリーだったんだなと
ジェシー・ピンクマンには葛藤と後悔があったけどウォルターにはあまり見られなかった。(ただしピンクマンについてははっきり認めないけど後悔してる節があった)
ジミーもウォルターも自分が認め評価されないことへの感情と忍耐の爆発から始まったけど、ジミーは次第に自分の罪や悔恨に向き合うことを避けて蓋をして逃げてしまう。
感情に蓋をして金の問題だと短絡的な思考パターンに嵌め込むことで心をブロックしエスカレートに拍車をかける。
ウォルターにしたってプライドと傲慢の塊になり暴走していく。
マイクにしたってそれぞれの後悔があり、マイクは息子の件をきっかけに常に自身へも厳しかった。
しかし、あの展開はたまげた。
最後のジミーとキムのタバコを吸うシーン🎬にはもう感慨深いものがあったなぁ。 - たぶぅー
たぶぅー あまら書くようなこともないこの二週間弱だったが、実は虫垂炎で一週間ほど入院していました。
この歳でなるのかという驚きとその程度でよかったという安堵がが半々。
CT診た先生が虫垂にしては驚くほど大きくメッケル憩室の炎症と開けてみないことには区別がつきにくい、何れにせよ腹膜炎一歩手前なので腹腔鏡手術一択とのこと、救急車で運ばれ痛みで寝ることも出来ず週末を過ごしたのでふたつ返事でお願いした。
全身麻酔なので術中の記憶がないのは助かるが臍からと下腹と二箇所から器具を入れる穴を開けた痛みと切除部位の痛みは目が覚めるとやはりあるわけで、これが難儀した。
何せ腹に力が入らないのが厄介、あと後日の尿道バルーンを抜く痛みと来たら最大の痛みだったし、直後の排泄時の沁みることといったら経験のない痛みに思わず声が出た。w
他人事だとそうかもねだけど本人は堪ったもんじゃありません。
まぁこれで謎の腹痛と今後一切オサラバ出来るのなら不可避な儀式だったと納得する二週間でした。
まだ痛みはあるけど寝てばかりじゃ良く無いと街に出かけて散歩をし、久しぶりの娑婆の空気にホッとし、馴染みの喫茶店でいつもより長めに珈琲をお替わりしながら本を読んだ。
読書も場所を変えると新鮮だし、気も紛れる。
今日のお供は斎藤環という精神科医の一冊。
祝日の街は混雑だった。 - たぶぅー
たぶぅー 半年ぶりに魚市場の定食屋に行ったらえらい値上がりしてた。
1,200円のサービス握り寿司は2,000円に、アジフライは900円が1,300円に、650円だった卵焼き定食は1,000円に、他もすべてこんな感じだ。
今日は知り合いが車で来たので何食べたいと聞いたら魚がいいというのでここにした。
自分はアジフライ定食、知り合いは塩サバ定食にしたがせっかくだからと刺身盛り(定食で2,000円)の刺身だけも追加で頼んだ。
ちょうど12時を回った店内は満席。
外にも並んでいた。
40人は入っていただろうお客も少しずつ入れ替わり、6人連れと2人連れが3組いち度に入って来た。
因みに店員は接客に70代のおばちゃんと60代らしきおばちゃんのふたりで、中は板前さんひとりと洗い場に年配の女性ひとりの4人で回してます。
自分達の隣には50代後半らしき恰幅の良い2人組。
これがちょっとした曲者で、注文を取る順番がおかしいと、こっちが先だろとおばちゃんに食ってかかった。
客が入って来てもおばちゃんふたりではテーブルを片付けるにも手が回らない様子だったから自分は幾つかのテーブルのお膳を下げたり手伝っていた。
件のおじさん、まぁ僕と年齢は変わらないだろうけどw
おしぼりもお茶も出てこない、注文を取るのも順序を間違える。おかしいじゃないかと突き出た腹を揺らし、伝票を握り締めて口籠もるおばちゃんを睨みながら口角泡飛ばしながら怒鳴りつけていた。
飯のことでキレたりするのはみっともないし、側にいるその他の人も不快になるだけなのにと思いながら見てたわけで
自分らもゆっくり食べ終わり自分らのお膳や周りの幾つかのテーブルの片付けも自分は手伝った。
もうゆっくりなったからいいよとおばちゃんも笑ったので会計をお願いしたら刺身代はいらないよ。サービスしとくって言われ恐縮した。
いやちゃんと払うんでと何度か申し出たけどいいからと言われ、じゃあありがとうございましたとお礼を言ったら、さっきは怖かったねっておばちゃんも笑ってた。
昔から飲食店やお店屋さんで客だからと居丈高になったり金を払うのはこちらだと威張る行為が嫌いです。
言い分もわかる場合もあるんだけど、それでもいいじゃないと見過ごしたり余裕が無いのかもと穏やかに躱すほうが自分も気が落ち着く。
モノの解釈というのか、読解力なのかわからないけど店先でお客さんでも時には店員さんもあるんですが角を立てて怒るのはなんだか嫌いなだけなんだけど…
今日は得しちゃってちょっと嬉しかったしおばちゃんらとまた来てね、はいもちろんと言葉を交わせて気持ちよく食事を終わらせられてよかった。というハナシでした。
しかしあの刺身盛りは1,500円くらいはしたろうに、申し訳なかったなぁ。
おじさんらもストレス溜まってたのかな? - たぶぅー
たぶぅー 今日はサウンドオブフリーダムを観てきた。
身近な話題ではないが何となく観た方が良いかなぁと思っていた映画だったので用事が早めに済んだのと上映時間がちょうど良かったのともうすぐ上映も終わりそうだったから
もの凄く観るのがキツい内容だった。
特に前半は救いがない。
実話ベースというのが重い。
何故キツかったかと言うと子供の目線での恐怖が伝わるからだと感じた。
ペドフィリアという癖はまったく理解出来ないが15年くらい前に一緒に働いていた途中入社の上司からある日ちょっと来てみろとパソコンの前でニヤニヤしながら自分を呼んだ。
画面を見るといわゆるその類の写真だった。
いいだろうと僕に同意を促す彼を正気か?と思いながらちょっとこういう趣味はないですねと彼の真意を量りかねる自分は気持ち悪い奴だなと思いながらもパワハラ気質の15歳年上の彼をそんな趣味がある人間かと半信半疑だった。
その後彼は事務の若い女性のデスクトップの画像フォルダにその手の写真を多数保存していてその彼女がそれを見つけ会社に訴え彼は辞めていった。
彼の趣味は本物に近かったのだろう。
金と環境さえあればこの手の人物はやりかねないだろうな。
こんな事は普段忘れているが思い出してしまった。
自分の世界観にはまったくないからと言って世の中にはそんな物はない。都市伝説的などこか関係のない遠い異世界の作り話だと否定してはいけないと深く感じた。
ボーダーラインを観た時もそう感じたけど
そして今回は更に人間の醜悪な一面に削られる思いをした。