ログイン
熊崎雅崇のトーク
トーク情報
  • 熊崎雅崇
    見城徹見城徹

    世界はこのまま続くという前提に立って全ての秩序や競争、ゲームは成立していた。それが今、突然のように世界はオマエたちの積み上げたルールでは続かせないと通告されている。世界の前提が壊れているのだ。全ての価値がガラガラポンになる。見城徹が新しい見城徹になる。幻冬舎が新しい幻冬舎になる。全ての価値をぶち壊したかった僕の衝動が本物だったかどうか試される丁度いいチャンスだと思うしかない。

  • 熊崎雅崇
    見城徹見城徹

    今日はリモートワークで色んなビジネスを決めた。疲れたけれど充実していた。久し振りの充実感。あと何年仕事が出来、あと何年生きられるだろうか?縮こまって生きたくない。何を選択し、何を捨てるのか?新型コロナという突然のモンスターがオマエはどう生きるのかという究極の問いを突き付ける。

  • 熊崎雅崇
    見城徹見城徹

    ↑ 優しい言葉を有難う。しかし、違うんです。ここは正確に言わねばならない。僕は尾崎豊から解放されたかった。地獄の道行きはもう沢山だ。尾崎がいなければどんなにか楽だろう。毎日、七転八倒しながらそう考えました。僕が死んでもおかしくない。そんな日々でした。だから、自分のためにホッとしたんです。
    しかし、28年経ってこう思います。
    生きている限り毎日は地獄だ。それが当たり前だと思って生きるしかない。地獄を引き受ける。忍びて終わり悔いなし。I Will Go to War!
    哀号。押忍!

  • 熊崎雅崇
    見城徹見城徹

    ↑ 尾崎の死後20年以上、僕は尾崎豊の歌を聴けませんでした。カラオケで誰かが尾崎の歌を歌う時は終わるまでトイレに行く振りをして部屋を出ていました。最近やっと尾崎の歌を聴き、尾崎の歌を歌えるようになりました。

  • 熊崎雅崇
    見城徹見城徹

    ↑ 初めて言いますが、「僕らも辛かったけど尾崎はもっと辛かった。だから、尾崎自身もホッとしたんじゃないか」とあの瞬間感じたんです。尾崎はあれ以上生きられなかった。あれ以上は辛過ぎた。あれが限界だった。つまり、あれが寿命だった。尾崎豊は尾崎豊の生を全うした。今でもそう思います。
    こんな風に言うのは不謹慎ですかね。

  • 熊崎雅崇
    見城徹見城徹

    ↑ 丁度28年前に尾崎豊が逝った。1992年の4月25日もよく晴れた日だった。朝から外出して昼頃自宅に戻り、留守番電話のスイッチを起動した。当時は携帯電話はまだなかった。留守電の最初が尾崎の音楽プロデューサーのソニーミュージックの須藤晃君で「尾崎が亡くなりました」から始まっていた。その後は僕のコメントが欲しい物凄い数のメディアからの連絡が入っていた。留守電を聴くのを途中でやめて、須藤君に電話した。ダイヤルを押しながら外を眺めたのだろう。眩くて爽やかな4月末の光が不自然で、その日差しだけを強烈に覚えている。
    最後に須藤君が言った。
    「見城さんと僕にしか解らないけど、なんだかホッとしましたね」
    僕にとっても正直な実感だった。それからどうしたのかは全く記憶から抜け落ちている。尾崎の個人事務所「アイソトープ」の副社長に僕が据えた[月刊カドカワ]の契約社員だった鬼頭明嗣と話していないとおかしいのだが(おそらく話したのだろうが)、全く記憶にない。というか須藤君との電話以降の記憶が全くないのだ。
    金の算段をし、人を集め、不動産屋を回り、代々木八幡に尾崎豊の個人事務所アイソトープを設立して1年半。地獄の日々があっけなく終わった瞬間だった。
    あれから28回目の4月25日。地獄の日々。今日もあの日のように爽やかに晴れている。

  • 熊崎雅崇
    見城徹見城徹

    何のために僕は働くのか?何のために僕は必死になっているのか?コロナは僕にそれを突き付ける。センチメンタルな夜。

  • 熊崎雅崇
    見城徹見城徹

    破滅の予感がするほどの逆風。企画も流通も宣伝も今のままでいいはずがない。今まで成立して来たものの根本を見つめ直し、変えなければならない。どこかの援助を期待したって、そんなものは一時的に過ぎない。昨夜の[世界一受けたい授業]で五木寛之さんも言っていた。
    「八方ふさがりでも後二方は空いている」
    そのニ方を考えて、考えて、考え抜く。