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Yukie

皆んなの前で自決した三島由紀夫は信念が強く、自らの生命に自らの手でケジメをつけたのは、ある意味、賞賛に値する。 ワタシも自決しようと何度か試みたけれど、恐怖が勝って出来なかった。 だけど、この世に生きる希望が持てないのなら、悲観し続けるよりもどうにかして自決するのが、人間の在り方、もしくはワタシの理想である。 イスラエルのテルアビブ空港で奥平剛士や安田安之ら日本人が銃撃したことは、見城さんの以前の投稿で知った。 悲しさ溢れる事件だ。 駅の立ち食いそば・・良いな

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Yukie のトーク
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  • Yukie
    Yukie

    自分の生に仁義を切ろうとする時、、
    ワタシが思う生き方は世を繁栄させ楽しい社会を築くか、
    人生に迷って生きていく希望を失くしたならば、潔く自分で自分の身を処分するかだと思う

  • Yukie
    見城徹見城徹
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    僕の昼の最高の贅沢。四ツ谷しんみち通り[スパゲッティながい]の「タマゴとベーコンのスパゲッティ醤油味]。最後にタマゴの汁を啜る快感が堪りません。

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  • Yukie
    Yukie

    ワタシの勤めている会社は正社員が10名程度の規模の会社です。だけど、将来の社会を担う大切な大切な人材を育成する会社であります。

    社員にこう言ったらイヤな気分になるかなと考えてワタシの中で最大限に伝える従業員にリスペクトを持って伝えようと取り組んでいる。

    自分自身に厳しい従業員は、同僚から指摘されても乗り越えようとしてくれる。だから、共に築く会社の荒波を共に乗り越えていけそうに思う。

    だけど、人間は不満の溜まる生き物であるのにも間違いない。多分、ワタシのいないところで、少しの不平不満を口にしている同僚もいるんじゃないかと・・

  • Yukie
    Yukie

    ワタシ達の会社はインターナショナルで、海外から働きに来てくれている同僚は、日本人社員よりももっとストレスを感じる場面があるだろう。

    ひとりひとりの顔色をうかがっていたら、本業の生徒に教鞭を取ることはできないが、従業員もある程度満たされてなかったら、仕事に励むことがなかなかできないんじゃないかと思う。

    こう言ったら昭和のおばさんが・・・と言われるかも知れないが、今の若者世代は、高度成長期に活躍した世代と社会が違うから、感じ方も大分違っているように思う。

    ワタシはアラフィフで、生徒も・若い世代の同僚も力を伸ばしてあげたいと思っているし、世代交代を意識して取り組んでいる。

    理想は、英語が達者な日本の心を持ったインターナショナルな人材を育てる機関を作ること

  • Yukie
    Yukie

    国際色が豊かだけれどそれぞれの国の文化を守る、、。

    前回に理想は英語が達者な日本の心を持ったインターナショナルな人材を育てる機関を作ること。と申し上げましたが、この考えはどの国にも通じて欲しい考えである。

    独自の言語や文化を大事にして、その反面インターナショナルな価値も大事にしたい。

    もし、全世界の人々が全て同じ言語を話し、同じ文化で同じ生き方だったら世界は面白くない。日本は日本の文化を続けるからこそ、世界の人たちは日本の魅力を感じるものだろうと思う。

    又、反対にワタシが外国に訪れた時、その国がその国の文化を大切にしていたら、とても素敵だと思うし魅力を感じる。
    もし、その国が日本と全く同じだったら、訪れる必要がないし、楽しくない。

    教えを受ける生徒も色々と学ぶことがあり、忙しいけれど、これらを習い学び続けた者がグローバルの世界で活躍すると思う。

    また、教える側の職員も忙しいが、インターナショナルに働いている面白味や楽しみもあるだろう。職員には腰を据えて頑張って欲しい。継続するために必要な、睡眠や食事などの生理的欲求は大人だから自分で満たして、生徒達に集中して欲しい

  • Yukie
    見城徹見城徹

    1970年11月25日は晴れていた。両親と妹が静岡県清水市の小糸製作所の社宅から神奈川県相模原市に買った小さなプレハブ住宅に引っ越して来て、僕も東京都目黒区柿の木坂の下宿を引き払って合流したばかりだった。僕は慶應義塾大学法学部政治学科の2年生だったが授業には殆ど出ることはなく、鬱々とした日々を実家で過ごしていた。三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入して自決。衝撃的なニュースをテレビが映し出していた。呆然としてテレビに釘付けになった。その後のことは覚えていない。翌朝、自転車を飛ばして小田急相模原駅の売店で新聞全紙を買い、駅構内にある[箱根そば]のスタンドで「コロッケうどん」を食べたのだけは何故か鮮明に記憶に残っている。1970年11月25日は衝撃的な日だった。行為することは死ぬことだ。漠然とそう思った。
    1972年5月30日。奥平剛士、安田安之らがイスラエルのテルアビブ空港を銃撃。空港警備隊に蜂の巣のように撃たれながら自分の足元に爆弾を投げて自爆した。この2日で僕の青春は終わりを告げた。僕は狡猾にこの世界で生き延びる道を選んだのだ。三島由紀夫の死から54年。世界はこともなく僕の前に佇み、僕は73歳になって生きている。

  • Yukie
    Yukie

    皆んなの前で自決した三島由紀夫は信念が強く、自らの生命に自らの手でケジメをつけたのは、ある意味、賞賛に値する。

    ワタシも自決しようと何度か試みたけれど、恐怖が勝って出来なかった。

    だけど、この世に生きる希望が持てないのなら、悲観し続けるよりもどうにかして自決するのが、人間の在り方、もしくはワタシの理想である。


    イスラエルのテルアビブ空港で奥平剛士や安田安之ら日本人が銃撃したことは、見城さんの以前の投稿で知った。
    悲しさ溢れる事件だ。


    駅の立ち食いそば・・良いな

  • Yukie
    見城徹見城徹

    さっきまで吉本隆明[言語にとって美とはなにか]をパラパラと読み返していて、不意に吉本さんから、
    「僕の作品を一番解っているのは見城さんだよ」
    と言われたことを思い出した。幻冬舎を作って2年後ぐらいの時だったと思う。その時はただただ感激したが、正直何でそんなことを言ってくれるのだろうと不思議にも思った。他ならぬ吉本隆明その人が言っているのである。僕の部下の石原正康は吉本ばななさんと結婚生活を送っていたこともあって吉本隆明さんと話す機会はあったが、僕はそれまでそんなに話す機会はなかった。中上健次がいる和歌山県新宮市に吉本さんを僕がお連れした時があった。長く話したのはその時ぐらいだ。その後、僕が書いた原稿用紙80枚ぐらいの拙い吉本隆明論[自我の自立と思想の非立]を畏れ多くもお送りしたことはあったが、感想は何も言われなかった。読んでくれたかさえ解らない。手紙は4、5回は出したと思う。それらのことが関係しているかどうかは解らないが、大変に光栄なことを言われてその日は眠れなかった。[言語にとって美とはなにか]の「あとがき」にある編集者への謝辞は印象的である。吉本隆明がいかに正直で誠実で繊細で堅牢な人であったかがよく解る。とにかく僕は吉本さんの作品に励まされ、ほぼ毎朝、原稿用紙に向かっている。いつ完成するのだろう?原稿は書いては破る繰り返しである。

  • Yukie
    Yukie

    他人に自分のことを1番理解しているのは、貴方だともし言われたら、
    あまりその他人を信じれないと思うのは、昔のワタシの在り方だった。

    だけど、今はその考えと少し違うけれど、
    パートナー以外にあまり他人に解ってもらう必要もないと、正直思う。

    特に私生活の部分で。

    ビジネスなどはある程度の意思を共有致しても良いかなとも思う