ショーンショーン 見城社長、コメントありがとうございます。「聖と俗の往還」は齋藤十一氏の魅力を語る上でもっとも大事な要素だと感じました。小林秀雄と交流する第一級の教養人でありながら、「俗物」を自称し、「金と女と権力」に塗れた人間の真の姿を暴き出す週刊雑誌メディアを日本に定着させた、振れ幅が、まさに齋藤十一氏の魅力です。
ショーンのトーク
トーク情報ショーン 見城徹見城徹 ショーン見城社長の755を拝見し、「ヤクザと家族」観に行きました。生きることの哀しさを、真っ直ぐ引き受けた人間だけが見せる本物の色気に酔いしれました。特に舘ひろしの組長役に魅せられました。拷問を受けた自分を、貸しを作って助けた人から、あんな風に「行く場所あるんか」と声をかけられた時の主人公の嬉しさ。そこから始まる悲劇の物語ですが、居場所のない人間の切なさと矜恃を描いた、本当に素晴らしい映画だと思います。本当の家族はいなくても、組の中の親や兄弟は命を張ってでも守りぬく。不器用に仁義を通す寄る辺のない男たちの美学。ヤクザにしか生きる道がなかった綾野剛。その綾野剛と父子の盃を交わす漢気と人情で組を率いる舘ひろし。
場面を張る時代遅れの男たちの哀切がスクリーン一杯に滲み出る慟哭のヤクザ映画です。- ショーン
ショーン 石原慎太郎氏の「『私』という男の生涯」を読んだ。
Somebody Up There Likes Meという言葉がこれほど似合う人がいない『漢』が、死という峻厳にして冷酷な現実に直面して語られる生涯の景色。
運命とは何か、人を愛するとはどういうことか、生きるとは何か、友を持つとはどういうことか、愛する家族がいるとはどういうことか。
石原慎太郎氏が見た全ての人生の景色が、あたかも無限に輝く星空を、灯りひとつない夜の大船原で眺めるかのごとく、経験することができるような本だった。
石原慎太郎氏は、皮肉屋でもなく、傲慢でもなく、ただ一心に自分に与えられたる自身の文学的天性を存分に生き尽くした人ではなかったのだろうか。
南米の荒野を若い仲間と踏破するような青春の経験はもはや、それだけで一つの文学だと思う。氏の政治における別離と回顧も、全て一つの純粋なる行動人の文学ではないか。
作品の所々で顔を覗かせる、合理主義を超えた存在に関する鋭敏なる感性は、どこかで氏の行動の文学と通底するものがあったと思う。
江藤淳氏が看破したように石原慎太郎氏の行動と肉体そして性愛と政治の文学は、全て迫り来る死と生の有限性についての、特殊にして稀有なる感覚からきているのではないだろうか。
だとすれば、死を直面した石原慎太郎氏が残したこの作品が、氏が処女作から追いかけたる、己が肉体と人生と、政治と行動と、文学と性愛を結晶させた至極の作品となった理由が、生き方を問わない全ての人に明らかになったことが、自明の理のように思えてくる。
この本はそういう本だった。 ショーン 見城徹見城徹 ショーン見城社長。石原慎太郎さんの「『私』という男の生涯」を本日一気に完読させて頂きました。石原慎太郎という日本の一時代を画した不世出の天才、スターの存在に心を完全に奪われました。死という現実と向き合った時に映し出される石原さんの人生のなんとリアリティと豊かさに満ちたことか。たった1つの人生を生き切った人の存在の切なさが、心に迫ってきました。素晴らしいという言葉で語り尽くせない程の素晴らしい本でした。おおっ![「私」という男の生涯]を短くも端的に評した感想を有難う。昭和、平成、令和を稀有な大スターとして生きた男の余りにも切ない赤裸々な独白。本当は「男」を「漢」としたかったです。
ショーン 見城徹見城徹 ↑ 亡くなった後、多くの出井さんに対する追悼記事を目にしたが、丸腰で褒めている記事は一つもなかった。特に朝日新聞の蓋棺録の大鹿靖明記者の文章は過不足なく批判も書き、それでいて追悼文にもなっていて見事だった。僕とて死者に鞭打つ気持ちはないが、一度は書いておかなければと、ずっと気になっていた。書けば悪口になってしまうので躊躇っていたがForbesを読んで決心が付いた。出井さんの失敗は経営者としての本質や信念が無いのにメディアや人の目を気にし過ぎたことにある。要は「ええカッコしい」なのだ。
これでは社員は付いて来ないし、組織もやがて崩壊する。その上、[ソニー]という超有名企業のトップになってしまったことが出井さんの勘違いに拍車をかけた。ソニーを辞してからも自分のブランド力を信じていた節がある。出井さんが亡くなったから言っているのではない。僕の感じている全てのことは生前、ご本人に生意気にも申し上げてある。ご自分の真の実力を虚心坦懐に知るべきだったと思う。出井さんの言動は僕には目に余った。