「もらっといてやる」発言の芥川賞作家・田中慎弥に菅田将暉が「あれは狙い?」
田中慎弥の第146回芥川賞受賞作の同名小説を、『東京公園』(11)の青山真治が映画化した『共喰い』(9月7日公開)。本作が第66回ロカルノ国際映画祭で「YOUTH JURY AWARD最優秀作品賞」と「ボッカリーノ賞最優秀監督賞」をダブル受賞した。8月26日に、受賞後初となる本作のプレミア上映会が開催され、菅田将暉、篠原友希子、光石研、青山真治監督、原作者の田中慎弥が登壇。主演を務めた菅田は「胸を張って転機だと言える作品です」と熱く語った。
『東京公園』(11)の時にロカルノ国際映画祭の金豹賞審査員特別賞を受賞した青山監督は、「あの時はコネみたいな感じですから。今回は学生さんと、ベテランの方々の双方から褒めていただき、大変うれしく思っています」と喜びを口にした。菅田も開催地のスイスがとても気に入ったようで「その土地の言葉で舞台挨拶をし、とても歓迎してもらいました。また、来たいなと思いました」と嬉しそうにコメント。
ゲストのなかで、実は一番いじられていたのは、原作者の田中だった。光石が「『(芥川賞を)もらっといてやる』発言で一世を風靡された先生。怖いんじゃないかと思っていたが、一緒に笑顔で写メを撮ってもらった。それを人に見せたら『この人、笑うの?』とみんなに言われました」と言うと、田中は苦笑い。一緒に田中と食事をした菅田も「あの決め言葉、『あれは狙いですか?』と聞いたら、『分析しないでくれ』と言われました(笑)」と発言。また、田中自身も「昨夜、AKB48を東京ドームで見ました。今日は日本のダークな頂点をご堪能ください」とお茶目に本作をアピールし、笑いを取った。
最後に、菅田が舞台挨拶をこう締めくくった。「個人的に、すごく運命的な物を感じる作品です。公開日の9月7日は、デビュー作『仮面ライダーW』の初めてのオンエアの日でした。10代最後の夏、全身全霊込めて演じました」。
『共喰い』は、昭和最後の夏の山口県下関市を舞台に、17歳の男子高校生と、暴力的な性癖を持つ父との濃密な血と性を描く野心作。映画には、小説にないオリジナルのエンディングが用意された。
https://tv.apple.com/jp/movie/%E5%85%B1%E5%96%B0%E3%81%84/umc.cmc.284muyrvupq8d1k2p995904cl
たぶぅー
トーク情報- たぶぅー
たぶぅー " WHAT KIND OF AMERICAN ARE YOU? "
現代に復活した南北戦争Civil Warを観てきた。
情報過多過ぎて頭が疲れた。
大統領が何となくD.トランプっぽく見えて不気味な滑り出し。
いろんな意味や意図が場面によって幾つも散りばめられているように感じた。
その状況と裏腹に美しい情景、自然や光と闇の対比、行く先々で変わる人々の表情と言動…
立場と境遇が違えば人はこんなにも考えや態度が変わる。
そんなのはめちゃくちゃ当たり前だけど、ストーリーの中でこんなにも様々な場面を盛り込まれる意図を観終わった後に振り返って考えさせられる感覚ってなんだこの感じは。
数日前にTVでイスラエルとガザの現状の番組を観た。それとリンクしながら考え感じた。
イスラエルの報復で無惨に亡くなった子供達の映像と「こんな報復のやり方は間違っている。」「罪の無い無垢な子供を犠牲にしてはならない。」と主張した学校の先生のインタビューと彼が学校に向かった場面で同僚のみならず大勢の生徒に取り囲まれ大声で非難されるシーン、切り替わってイスラエルの右派なのかきっぱりとした声と表情、揺るぎない強い眼差しで「これは光と闇の闘いだ。我々は光だ!」と話す人。
宗教というイデオロギーの対立、人種、民族の対立が大雑把に言えば伝わる。
この映画からは政治的イデオロギーの対立、人種差別、社会的階級や信条による断絶などもっとあるのかも知れないけど、そんな物は自分が直接被害に合いさえしなければ関わらないしそれで何の問題もないわと嘯く女性が差し込まれるこの映画はぐさっとさせられるし現実だと思う。
"光と闇"のように二元論にした方が楽だと思うし、自己肯定出来る。
如何にも我に正論ありだけどイスラエルとハマスのどちらかに個人的肩入れはない。
たぶんハマスは…と思うけど
けれども立場が変われば切り取る場面によれば変わる…筈なのにいざ自分の生存に関わる場面に遭遇すると理性や知性などは消し飛ぶし個の生存を掛けた本能剥き出しになるのは非難すべき事じゃないとも思う。
物事の見方を多面的に問われるような内容だった。
これは相当に危うく不穏なものを感じるし制作の意図や背景をあまり深読みし過ぎると怖いような気もする。
結局は争いの正当性やイデオロギーの主義主張など前線で闘ってる又は被害に遭う人にとっちゃ関係ない。
誰に撃たれてるかわからんがそんなこと関係ない、やり返すだけだと話す狙撃兵と報道側の主人公たちとの会話が示すとおり。
残酷な場面と自然や夜の光の風景やフォーカスによる対比も印象的。
文章の冒頭の台詞は戦争には何の関係もない只の人種差別的殺戮シーン。
他にも無惨、人はこんな残酷になるというシーン多数。
あの吊るされる側と吊るす側が高校の同級生というのも強烈でした。 - たぶぅー
たぶぅー 他人の評価はやっぱりバイアスが入るから映画は自分の目で観て感じるに限るんだなと思うことだった。
自分のモノの見方や解釈にも偏向があったと考え直した。
自分の見たいモノじゃなく何を描こうとしたのかを二作品通して素直に感じたならこのラストに込めた監督の問いかけは重かった。
賛否が別れるのもわかるけど好きか嫌いか?というと好きだと思う。
観てよかった。
アーサー・フレックという幼少期の虐待、ネグレクトに起因すると思われる精神疾患と情動調節障害という発作的笑いにより社会から弾かれ抑圧され拒絶と侮辱を受け孤立した本来は優しく思いやりだってある彼の人生の物語だった。
様々な登場人物それはハーレイにも個人的にはメタファーや暗示を感じた。
一作目で小人症のゲイリー・パドルズにアーサーが「君は僕にずっと親切にしてくれたただひとりの存在だ」と話す場面が印象的だった。阻害され続けた痛みをわかってくれるただひとりの理解者だったんですね。彼を含め一作目の登場人物はほぼ出てきた。
デニーロ演ずるマレー・フランクリンはもちろん出てこないが元々は尊敬し憧れていた彼に放った言葉「俺が歩道で死にかけても踏みつけて歩くくせに。俺は毎日あんたたちとすれ違ってる。でも誰も俺に気づかない。心を病んだ、打ち捨てられて孤独な男を、ゴミのように扱うと何を受け取ったか教えてやるよ!報いを受けるんだ!」と…
その後の行く末をどう解釈するかが本作の問いかけだと思う。
アーサーもジョーカーも暗示だと
作品全体を通して監督の意図を類推、考えさせられてしまった。
昨日の作品に続いて観終わったあと二、三時間は反芻しながら咀嚼した。
こんな時には誰かと感想を話し合いたいものだと思う限りです。 - たぶぅー
たぶぅー 上に貼った二枚の写真の意味。
一枚目はアーサーを見せ物にして笑いモノにしたマレーに銃を向けるアーサー。
元々はマレーの番組のファンで憧れていて、妄想の中ではこの番組に出て舞台の上で労いの温かなハグシーンを夢見た…その番組でマレーの自身への扱いの中に侮蔑と辱めを見抜き出演オファーされた電話口でアーサーの表情は既に冷え切っていた。
最初は自身の頭を下から撃ち抜き終わりにしようと思ったようなシーンも見られたが思い直し復讐に切り替わった。
二枚目は今作でアーサー自身の妄想シーンではあるが暗示的です。
ハーレイがジョーカーに銃を向けているがジョーカーを狂信的に支持するゴッサムの民衆と映画を観ている一作目のファンを含む顔の見えない世界中の観客をハーレイに重ねて見ることも出来る。
監督とホアキンが一作目に感化された世の事象にどう思い何を考え表現したかったか。
一方的にせよ信頼や期待、本人のコントロールを超えて肥大した憧れや熱狂の行く末を暗示する象徴的場面。
ホアキンの意見で脚本がかなり変更されているらしいが監督にもおそらく意図するモノがあったはずです。
しかしラスト手前からの転調にはそう来たかとか驚きや戸惑いを感じた。
結局自分は納得。
もう一度見に行きたいくらいによく出来ていて演技力も映像も素晴らしい。
ホアキンは前作よりも痩せこけて見えるし、ガガは好みのタイプでは無いがやはり魅了する存在だと思う。
存在感強かった。 - たぶぅー
たぶぅー 公開から一年半経ってようやく【TAR】を観た。笑
ケイト・ブランシェットが素晴らしかった。
彼女が演じるとまるで本当のマエストロのようだ。
前半が特に難しい。
感情表現は役者ならある程度安心して観ていられるが権威主義的なクラシック界の最高峰に位置するベルリンフィルの主席指揮者を違和感なく演じるのはかなりハードルが高い。
ジュリアード音楽院での授業中にある学生に放った「音楽の価値にジェンダーも人種も関係ない」という言葉が印象的でした。
本作のトッド・フィールド監督がこの作品を作るきっかけになったのは1970年台のハーバード大学でのレナード・バーンスタインの講義録を読んだからだそうでそれによれば「音楽とは空気を震わせるものであって、すべての音楽はノイズなんだ」と書いてあり感銘を受けた。それが企画のインスピレーションとなったそうだがケイト演じるリディアの音楽理論、様々な場面の美術や小道具たち、堂々とした立ち居振る舞いまで随所に拘りが深く感じられる。
写真はサントラだけどまるでグラモフォンの本物のクラシックジャケットだ。
ちょこちょこくすぐるなぁ
これは大きなスクリーンで観たかったなぁ。
最後まで音楽への献身がリディアの真の喜びだったんだなと一種の安心のような余韻が残りました。 - たぶぅー
たぶぅー ベターコールソウル/シーズン5まで観てジミーやキムでなく、チャックでもなくもちろんガス・フリントやトゥコやトゥコの叔父ヘクター・サラマンカなわけもないけど一番気に入ってるのはマイクだ。
亡くなった息子の嫁ステイシーがマイクを結局追い詰めていく原因を作ってしまう。
ジミーの暴走っぷりもだけどこれ観てると米人ってネジがぶっ飛んでるのかあまりに思慮が足りな過ぎてアホが多いのかしらと呆れ気味になるがいやいやドラマを盛り立てるために誇張なんだろうと打ち消したり、そう言えば子供の頃映画を観ながら、あれは13日の金曜日とかその類のやつなんか特にだけど観てるとなんでー!ダメに決まってるじゃないとハラハラ、イライラさせられた感覚に少し似てると思い出した。
只の元警官で駐車場の係をしているマイクにいくら自分が大変とはいえ生活費の多少の援助はまだしも複数回の引越し、しかも贅沢な広い家などいくらなんでもふたつ返事してくれるからとエスカレートし過ぎだし、遠慮や思慮無さすぎて…
寡黙なマイクがまだガス・フリングを始めとするカルテルの闇に絡め取られる以前の人間味や独自のルール、生き方が好ましいと思ってます。
長いストーリーもあと2シーズン弱だけどダレることなく観続けられるこの作品は凄い。
サラマンカファミリーの傍若無人っぷりとガスの冷静なビジネスマンっぷりの対比や喋れて意気のいいヘクターの姿が見れるのも確執の起点がよくわかる。
トゥコの出番は少ないけど最後らへんで出てくるのか?
[ブレイキング・バッド]以後も若干絡めながらなのも気になっていたからおもしろい。 - たぶぅー
たぶぅー 昨夜やっと最終話を見終わった。
裁判での自分自身を弁護するシーン
小さく「ショータイム」と…
その裁判の吐露と真意から結末の後の兄のチャーリー・マッギルとジミーのまだ兄が事務所を休んだばかりの頃の回想まででいつのまにかポロポロと涙が溢れていた。
もうシーズンが進むにつれてだんだんとジミーに感情移入出来なくなってしまった。
最終話でやっとわかった。
何をいったい見させ続けられているんだと段々と腹も立って来るしジミーやキムを見るのがかなりのストレスだったんだなと自分の気持ちや感情に気づいた
ジミーは益々スリッピング・ジミーの度合いがブレーキの壊れたアンストッパブルな暴走で周囲のすべてを巻き込んで破滅させるし自分をも結果的に痛めつけていく、張り切れば張り切るほど滑稽だし、悪い事態を引き起こす。
これは罪と後悔についての壮大なストーリーだったんだなと
ジェシー・ピンクマンには葛藤と後悔があったけどウォルターにはあまり見られなかった。(ただしピンクマンについてははっきり認めないけど後悔してる節があった)
ジミーもウォルターも自分が認め評価されないことへの感情と忍耐の爆発から始まったけど、ジミーは次第に自分の罪や悔恨に向き合うことを避けて蓋をして逃げてしまう。
感情に蓋をして金の問題だと短絡的な思考パターンに嵌め込むことで心をブロックしエスカレートに拍車をかける。
ウォルターにしたってプライドと傲慢の塊になり暴走していく。
マイクにしたってそれぞれの後悔があり、マイクは息子の件をきっかけに常に自身へも厳しかった。
しかし、あの展開はたまげた。
最後のジミーとキムのタバコを吸うシーン🎬にはもう感慨深いものがあったなぁ。