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たぶぅー
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不条理における自由 ここで不条理の経験が自殺とは真逆のものであることに気付きます。 自殺は反抗とは真逆の「受容(あきらめ)」です。 飛躍が反抗の果てに起こったように、自殺は反抗の果てのギリギリの限界点であきらめ受容することです。 意識的であり続け反抗を貫くということは、こうした自己放棄とは正反対のあり方です。 不条理とは、孤独な努力によってなされる極限的な緊張状態です。 反抗とは、自分の唯一の真理である不断の挑戦のことです。 不条理を生きる人間には、形而上学的な自由の議論などどうでもいいのです。 私の行為が自由かどうかを知るには、私を超越した高次の存在者の視点が必要です。 しかし、そもそも、この場所で今まさに生き、飛躍を拒否する私にとってはそんな階層の観念などありません。 私にとって自由とは、単純な社会的自由、囚人や管理社会の中で生きる個人が思い描く自由の観念以外のなにものでもありません。 それは端的に、精神と行動の自由をさしています。 不条理は永遠の自由を得るためのチャンスを消滅させます。 しかし、逆にそれによって精神と行動の自由を人間に返還し、火をつけます。 不条理によって未来と希望を剥奪されることによって、人間の自由な行動の可能性が拓かれます。 一般的に人は、未来の目的や希望を持ち、その計画に従って人生を見積もり、行動しています。 それを自由と思い込み生きているわけですが、ふいに不条理に出会ったとき、あらゆるものに意味があるように振舞っていた自分の人生が、根底から揺り動かされます。 いつ死ぬかも分からないという不条理性が、それらを否定しさるのです。 ある目的や希望に向かうということは、一種の自由への信仰、いわばありもしない永遠(未来は確実に存在するという期待が生む幻想)を信じ込むことを前提としています。 しかし、不条理と出会い、そこから目覚めた時、自分が今まで自由という公準(証明されてはいないが皆に認められている仮定)に縛られ、その幻の上で生きていたことに気付きます。 私は、自由であると思い込みながら、その実、自由によって束縛されていたのです。 自分の現在の行動は、未来の目的を達成するための従順な遂行であり、それは自分の自由(主体的に目的を立て行為選択すること)の奴隷であるということです。 例えば、立派な父親を目的とする人間は、現在の自己の行動を、父親としての振る舞いに束縛します。 希望や目的を持つということは、自分の人生を秩序付け、人生には意味があると自分で自分に言いきかせることであり、それは自分の人生を自分の先入観や社会的常識という升目の中に押し込んでいくことです。 そしてそれを人は自由と思い込んでいます。 明日というものはない、この自覚に人間の真の自由の根拠があるのです。 その自由を明確にするための比較対象として、自己放棄による自由を挙げてみます。 それは神や運命に身を預けることによって得る永遠の安心です。 因果の車輪と同化することによって、あらゆる煩いが解消されます。 しかし、これはただ自由だと本人が感じる主観的なもの「自由の感じ」が得られるだけであって、精神と行動において自由なわけではありません。 むしろ奴隷が決して叶わぬ精神と行動の自由を諦めて、もう主人に反抗することをやめることによって得る、麻酔薬のような幻想の内にある自由です。 それとは逆に、不条理な人間は、自分の内部にある緊張感以外のものからは、すべてにおいて解放されてます。 意識への回帰によって、日常的な眠りから脱却し、精神と行動における自由を得ます。 自分の人生に対し、自分は異邦人となって人生を作っていき、恋人を見るような親密な目を捨て、鳥瞰的に人生を眺めること、それが解放の原理です。 死を前にしてもろくも崩れ去った自由という錯覚に取って代わる、この新しい解放。 それは、喩えるなら、処刑の日の明け方に死刑囚が感じる、自分の鼓動以外に対する極度の無関心と、崇高な行動の可能性に似ています。 真白な雪の上を歩くような、無垢な自由の感覚です。 こうした状態が、唯一、人間の心が純粋に経験し生きることのできる自由の原理です。 このとき彼は、このような宇宙で生きることを肯定し、慰められることの決してない人生を、頑強に行動によって証してゆくことを決意します。

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たぶぅー
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  • たぶぅー
    たぶぅー
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    " WHAT KIND OF AMERICAN ARE YOU? "

    現代に復活した南北戦争Civil Warを観てきた。
    情報過多過ぎて頭が疲れた。
    大統領が何となくD.トランプっぽく見えて不気味な滑り出し。
    いろんな意味や意図が場面によって幾つも散りばめられているように感じた。
    その状況と裏腹に美しい情景、自然や光と闇の対比、行く先々で変わる人々の表情と言動…
    立場と境遇が違えば人はこんなにも考えや態度が変わる。
    そんなのはめちゃくちゃ当たり前だけど、ストーリーの中でこんなにも様々な場面を盛り込まれる意図を観終わった後に振り返って考えさせられる感覚ってなんだこの感じは。
    数日前にTVでイスラエルとガザの現状の番組を観た。それとリンクしながら考え感じた。
    イスラエルの報復で無惨に亡くなった子供達の映像と「こんな報復のやり方は間違っている。」「罪の無い無垢な子供を犠牲にしてはならない。」と主張した学校の先生のインタビューと彼が学校に向かった場面で同僚のみならず大勢の生徒に取り囲まれ大声で非難されるシーン、切り替わってイスラエルの右派なのかきっぱりとした声と表情、揺るぎない強い眼差しで「これは光と闇の闘いだ。我々は光だ!」と話す人。
    宗教というイデオロギーの対立、人種、民族の対立が大雑把に言えば伝わる。
    この映画からは政治的イデオロギーの対立、人種差別、社会的階級や信条による断絶などもっとあるのかも知れないけど、そんな物は自分が直接被害に合いさえしなければ関わらないしそれで何の問題もないわと嘯く女性が差し込まれるこの映画はぐさっとさせられるし現実だと思う。
    "光と闇"のように二元論にした方が楽だと思うし、自己肯定出来る。
    如何にも我に正論ありだけどイスラエルとハマスのどちらかに個人的肩入れはない。
    たぶんハマスは…と思うけど
    けれども立場が変われば切り取る場面によれば変わる…筈なのにいざ自分の生存に関わる場面に遭遇すると理性や知性などは消し飛ぶし個の生存を掛けた本能剥き出しになるのは非難すべき事じゃないとも思う。

    物事の見方を多面的に問われるような内容だった。

    これは相当に危うく不穏なものを感じるし制作の意図や背景をあまり深読みし過ぎると怖いような気もする。

    結局は争いの正当性やイデオロギーの主義主張など前線で闘ってる又は被害に遭う人にとっちゃ関係ない。
    誰に撃たれてるかわからんがそんなこと関係ない、やり返すだけだと話す狙撃兵と報道側の主人公たちとの会話が示すとおり。
    残酷な場面と自然や夜の光の風景やフォーカスによる対比も印象的。
    文章の冒頭の台詞は戦争には何の関係もない只の人種差別的殺戮シーン。
    他にも無惨、人はこんな残酷になるというシーン多数。
    あの吊るされる側と吊るす側が高校の同級生というのも強烈でした。

  • たぶぅー
    たぶぅー
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    うわー!
    こっちに行っちゃったか😢
    スコセッシが好きなのはいいんだけど
    望むところはそっちじゃない。
    クリストファー・ノーランだし
    ヒースなんだよなぁ。
    何となく違和感あった予告編がシェルブールの雨傘とは…
    ライザミネリ→ガガ?
    デニーロ→ホアキン?
    シェルブール=ミュージカル⁈
    オマケにアニメ
    萎えた。。。

  • たぶぅー
    たぶぅー
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    他人の評価はやっぱりバイアスが入るから映画は自分の目で観て感じるに限るんだなと思うことだった。
    自分のモノの見方や解釈にも偏向があったと考え直した。
    自分の見たいモノじゃなく何を描こうとしたのかを二作品通して素直に感じたならこのラストに込めた監督の問いかけは重かった。
    賛否が別れるのもわかるけど好きか嫌いか?というと好きだと思う。
    観てよかった。
    アーサー・フレックという幼少期の虐待、ネグレクトに起因すると思われる精神疾患と情動調節障害という発作的笑いにより社会から弾かれ抑圧され拒絶と侮辱を受け孤立した本来は優しく思いやりだってある彼の人生の物語だった。
    様々な登場人物それはハーレイにも個人的にはメタファーや暗示を感じた。
    一作目で小人症のゲイリー・パドルズにアーサーが「君は僕にずっと親切にしてくれたただひとりの存在だ」と話す場面が印象的だった。阻害され続けた痛みをわかってくれるただひとりの理解者だったんですね。彼を含め一作目の登場人物はほぼ出てきた。
    デニーロ演ずるマレー・フランクリンはもちろん出てこないが元々は尊敬し憧れていた彼に放った言葉「俺が歩道で死にかけても踏みつけて歩くくせに。俺は毎日あんたたちとすれ違ってる。でも誰も俺に気づかない。心を病んだ、打ち捨てられて孤独な男を、ゴミのように扱うと何を受け取ったか教えてやるよ!報いを受けるんだ!」と…
    その後の行く末をどう解釈するかが本作の問いかけだと思う。
    アーサーもジョーカーも暗示だと
    作品全体を通して監督の意図を類推、考えさせられてしまった。
    昨日の作品に続いて観終わったあと二、三時間は反芻しながら咀嚼した。
    こんな時には誰かと感想を話し合いたいものだと思う限りです。

  • たぶぅー
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    上に貼った二枚の写真の意味。
    一枚目はアーサーを見せ物にして笑いモノにしたマレーに銃を向けるアーサー。
    元々はマレーの番組のファンで憧れていて、妄想の中ではこの番組に出て舞台の上で労いの温かなハグシーンを夢見た…その番組でマレーの自身への扱いの中に侮蔑と辱めを見抜き出演オファーされた電話口でアーサーの表情は既に冷え切っていた。
    最初は自身の頭を下から撃ち抜き終わりにしようと思ったようなシーンも見られたが思い直し復讐に切り替わった。

    二枚目は今作でアーサー自身の妄想シーンではあるが暗示的です。
    ハーレイがジョーカーに銃を向けているがジョーカーを狂信的に支持するゴッサムの民衆と映画を観ている一作目のファンを含む顔の見えない世界中の観客をハーレイに重ねて見ることも出来る。
    監督とホアキンが一作目に感化された世の事象にどう思い何を考え表現したかったか。
    一方的にせよ信頼や期待、本人のコントロールを超えて肥大した憧れや熱狂の行く末を暗示する象徴的場面。

    ホアキンの意見で脚本がかなり変更されているらしいが監督にもおそらく意図するモノがあったはずです。

    しかしラスト手前からの転調にはそう来たかとか驚きや戸惑いを感じた。
    結局自分は納得。
    もう一度見に行きたいくらいによく出来ていて演技力も映像も素晴らしい。
    ホアキンは前作よりも痩せこけて見えるし、ガガは好みのタイプでは無いがやはり魅了する存在だと思う。
    存在感強かった。

  • たぶぅー
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    公開から一年半経ってようやく【TAR】を観た。笑
    ケイト・ブランシェットが素晴らしかった。
    彼女が演じるとまるで本当のマエストロのようだ。
    前半が特に難しい。
    感情表現は役者ならある程度安心して観ていられるが権威主義的なクラシック界の最高峰に位置するベルリンフィルの主席指揮者を違和感なく演じるのはかなりハードルが高い。
    ジュリアード音楽院での授業中にある学生に放った「音楽の価値にジェンダーも人種も関係ない」という言葉が印象的でした。
    本作のトッド・フィールド監督がこの作品を作るきっかけになったのは1970年台のハーバード大学でのレナード・バーンスタインの講義録を読んだからだそうでそれによれば「音楽とは空気を震わせるものであって、すべての音楽はノイズなんだ」と書いてあり感銘を受けた。それが企画のインスピレーションとなったそうだがケイト演じるリディアの音楽理論、様々な場面の美術や小道具たち、堂々とした立ち居振る舞いまで随所に拘りが深く感じられる。
    写真はサントラだけどまるでグラモフォンの本物のクラシックジャケットだ。
    ちょこちょこくすぐるなぁ
    これは大きなスクリーンで観たかったなぁ。
    最後まで音楽への献身がリディアの真の喜びだったんだなと一種の安心のような余韻が残りました。

  • たぶぅー
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    昨晩、[ベターコールソール]をなんとなく見始めたけど、前作でも印象的だったトゥコが2話で出てきた。
    相変わらずぶっ飛んでいて怖いやつだ。
    脇役で悪なんだけどキョーレツな演技。
    こんなやつに関わったらとんでもないが、作品で見る分には危機感が増して面白くもっと見たくなる。

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  • たぶぅー
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    ベターコールソウル/シーズン5まで観てジミーやキムでなく、チャックでもなくもちろんガス・フリントやトゥコやトゥコの叔父ヘクター・サラマンカなわけもないけど一番気に入ってるのはマイクだ。
    亡くなった息子の嫁ステイシーがマイクを結局追い詰めていく原因を作ってしまう。
    ジミーの暴走っぷりもだけどこれ観てると米人ってネジがぶっ飛んでるのかあまりに思慮が足りな過ぎてアホが多いのかしらと呆れ気味になるがいやいやドラマを盛り立てるために誇張なんだろうと打ち消したり、そう言えば子供の頃映画を観ながら、あれは13日の金曜日とかその類のやつなんか特にだけど観てるとなんでー!ダメに決まってるじゃないとハラハラ、イライラさせられた感覚に少し似てると思い出した。
    只の元警官で駐車場の係をしているマイクにいくら自分が大変とはいえ生活費の多少の援助はまだしも複数回の引越し、しかも贅沢な広い家などいくらなんでもふたつ返事してくれるからとエスカレートし過ぎだし、遠慮や思慮無さすぎて…
    寡黙なマイクがまだガス・フリングを始めとするカルテルの闇に絡め取られる以前の人間味や独自のルール、生き方が好ましいと思ってます。
    長いストーリーもあと2シーズン弱だけどダレることなく観続けられるこの作品は凄い。
    サラマンカファミリーの傍若無人っぷりとガスの冷静なビジネスマンっぷりの対比や喋れて意気のいいヘクターの姿が見れるのも確執の起点がよくわかる。
    トゥコの出番は少ないけど最後らへんで出てくるのか?
    [ブレイキング・バッド]以後も若干絡めながらなのも気になっていたからおもしろい。

  • たぶぅー
    たぶぅー
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    昨夜やっと最終話を見終わった。
    裁判での自分自身を弁護するシーン
    小さく「ショータイム」と…
    その裁判の吐露と真意から結末の後の兄のチャーリー・マッギルとジミーのまだ兄が事務所を休んだばかりの頃の回想まででいつのまにかポロポロと涙が溢れていた。
    もうシーズンが進むにつれてだんだんとジミーに感情移入出来なくなってしまった。
    最終話でやっとわかった。
    何をいったい見させ続けられているんだと段々と腹も立って来るしジミーやキムを見るのがかなりのストレスだったんだなと自分の気持ちや感情に気づいた
    ジミーは益々スリッピング・ジミーの度合いがブレーキの壊れたアンストッパブルな暴走で周囲のすべてを巻き込んで破滅させるし自分をも結果的に痛めつけていく、張り切れば張り切るほど滑稽だし、悪い事態を引き起こす。
    これは罪と後悔についての壮大なストーリーだったんだなと
    ジェシー・ピンクマンには葛藤と後悔があったけどウォルターにはあまり見られなかった。(ただしピンクマンについてははっきり認めないけど後悔してる節があった)
    ジミーもウォルターも自分が認め評価されないことへの感情と忍耐の爆発から始まったけど、ジミーは次第に自分の罪や悔恨に向き合うことを避けて蓋をして逃げてしまう。
    感情に蓋をして金の問題だと短絡的な思考パターンに嵌め込むことで心をブロックしエスカレートに拍車をかける。
    ウォルターにしたってプライドと傲慢の塊になり暴走していく。
    マイクにしたってそれぞれの後悔があり、マイクは息子の件をきっかけに常に自身へも厳しかった。
    しかし、あの展開はたまげた。
    最後のジミーとキムのタバコを吸うシーン🎬にはもう感慨深いものがあったなぁ。