削除されたユーザー生きるとは、その人の生計や嗜好の背景にある自我そのもの。物や人と接し自分はどのような関係にあってそれをどう感じるかを学び取り、また、それを認識できた時、その人は生きていると定義できるのでないでしょうか。つまり、花が綺麗だと感じる時、ニュースを聞いて憤慨する時、その要所要所で私は生きている。なぜならば、自分の感じる感覚は過去の経験や信仰心、ポリシーとそれとの交わりによって生じているから。
哲学カフェ「生きる意味とは?」
トーク情報- RAM
RAM 削除されたユーザー生きている定義を考えてみると、科学的な理由(心臓がいているのか?など)が一番真っ当理由付けになるんじゃないかなーと思います。 あとは、自己認識の世界じゃないかなと。 ただ、その生きている事の証明となると、それは自分よがりな思想になってしまつので、そのステージでは他者の観測がどうしても必要になってくると考えています。 我々はひょっとしたら水槽に入った脳なのかもしれませんし。生きていることの定義は心臓が動いているなどの医学的根拠に準ずるべきと考えていらっしゃるんですね。
ただし、生命の存在の客観的証明となるとやはり不可能なように思えて、それについて考えること自体ができないというのがネックに感じていらっしゃるみたいですね