恩返し圧倒的努力の裏に、健康を失うと言うリスクがあるのが、僕は怖いんです。 もう、健康を失いたくないのです。
見城徹のトーク
トーク情報見城徹 見城徹見城徹 土曜、日曜が来て月曜になる。時々、それが僕には耐えられない。時間はただ一方向に流れているだけだ。それを7日間を1週間と区切って1クールとし、永遠に繰り返すようにしたのはある時代からの人間の仕業だ。また月曜日が来る。生きている限り繰り返されるこの宿命。7日間で元に戻ってしまうこの残酷。この徒労感。言っても詮無いことだけど、生まれた瞬間から死に向かうこのやるせなさを僕は克服出来ない。それを束の間忘れるためには日々を熱狂して過ごすしかない。絶え間ない熱狂。絶え間ない努力。やがて、それにも終わりが来るだろう。死は生まれる前に戻ることだ。時間は人間が作りだした概念だ。幻想だ。時間など存在しない。人間はただ生まれて死ぬ。それだけだ。
見城徹 見城徹見城徹 吉本隆明論[私的闘争の仁義]を書いていると吉本の初期の論稿「伊勢物語論」に字数を割かざるを得ない。吉本隆明の「伊勢物語論」はヴァレリの言葉の引用から始まる。
今伊勢物語の感想を語るについて、ヴァリエテ(ママ)の一節を引用したのは他意があったわけではない。僕達が古典におもむく心とはとりもなほさずこの時間の不可思議さに対する驚異の念に外ならないと思へたのである。(中略)
永遠とは何であるのか。僕はこの「時間に対する畏敬」という感覚を外にして永遠への感覚が在り得るとは思へないのである。伊勢物語とは明らかにその様な畏敬を感覚される稀有な作品であることは確かだ。
吉本はこのようにして伊勢物語論を書き始める。既にここには[共同幻想論]に至る端緒が芽生えている。自分の生に仁義を切ろうとする時、人は時間という概念を深く考えざるを得ない。その時、吉本の胸に[伊勢物語]は避けて通れないテクストになったのだ。- 見城徹
見城徹 1970年11月25日は晴れていた。両親と妹が静岡県清水市の小糸製作所の社宅から神奈川県相模原市に買った小さなプレハブ住宅に引っ越して来て、僕も東京都目黒区柿の木坂の下宿を引き払って合流したばかりだった。僕は慶應義塾大学法学部政治学科の2年生だったが授業には殆ど出ることはなく、鬱々とした日々を実家で過ごしていた。三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入して自決。衝撃的なニュースをテレビが映し出していた。呆然としてテレビに釘付けになった。その後のことは覚えていない。翌朝、自転車を飛ばして小田急相模原駅の売店で新聞全紙を買い、駅構内にある[箱根そば]のスタンドで「コロッケうどん」を食べたのだけは何故か鮮明に記憶に残っている。1970年11月25日は衝撃的な日だった。行為することは死ぬことだ。漠然とそう思った。
1972年5月30日。奥平剛士、安田安之らがイスラエルのテルアビブ空港を銃撃。空港警備隊に蜂の巣のように撃たれながら自分の足元に爆弾を投げて自爆した。この2日で僕の青春は終わりを告げた。僕は狡猾にこの世界で生き延びる道を選んだのだ。三島由紀夫の死から54年。世界はこともなく僕の前に佇み、僕は73歳になって生きている。